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沖田総司「血は吐かなかった!?池田屋騒動」あの歴史偉人「裏素顔」

日刊大衆 / 2024年5月6日 7時0分

写真はイメージです

 新選組の名を一躍有名にしたのが池田屋騒動。

 元治元年(1864年)六月五日夜、会津藩と薩摩藩が仕掛けた政変によって京を追われた長州藩の藩士らが、失地回復のため京の三条小橋にある料理屋池田屋で鳩首していた。

 近藤勇が隊士の沖田総司らとともに表口より入って玄関口で主人を呼び、「旅宿改めである」旨を告げると、主人は驚いて奥の二階へ走っていった。そこで近藤らが後を追ってゆくと、長州藩士ら二〇名ほどが一斉に抜刀した。対する新選組は、このとき二手に分かれて長州藩士らの会合場所を探っていたため、総勢一〇名。かなりの激戦となり、近藤が後に郷里へ宛てた書簡で、沖田総司の刀の帽子(切っ先部分)が折れたと証言している。

 時代劇などでは、その総司が喀血して離脱するシーンが必ずといっていいほど描かれている。本当に総司は喀血したのだろうか。

 白河藩士を父にもつ沖田総司(幼名惣次郎)は麻布(東京都港区)の白河藩邸で生まれ、九歳もしくは十二歳のとき、市谷柳町(新宿区)にあった天然理心流の試衛館道場へ入門。そこで、やがて道場を継ぐ近藤や土方歳三と出会い、文久三年(63年)二月、浪士隊結成に応じて近藤・土方らとともに上洛する。その後、紆余曲折を経て、新選組は京都守護職会津藩お抱えの治安部隊となった。

 そして池田屋騒動が起きる。ところが、事件三日後に近藤が残した書簡(前出)には総司の喀血や離脱のことは触れられていない。

 一方、近藤や総司とともに池田屋を襲撃した永倉新八の回顧録には「(沖田は)持病の肺患が再発してうち倒れた」と書いてある。だが、ここでも喀血したとは書いていない。沖田が肺結核であった事実は当然、永倉も知っている。だから明治後に回顧した際、沖田が斬り合う間、何かの拍子に倒れたのを肺患いのためだと思いこんだのではあるまいか。

 そうして昭和の初めに作家の子母澤寛が『新選組始末記』を書き、そこで「(総司が)喀血して昏倒した」という話が定着したと考えられる。

 そもそも、もろもろの史料からみて沖田の病状が悪化するのは慶応三年(67年)の夏以降。

 というのも、医師の松本良順が明治にまとめた回想録によると、新選組の屯所が壬み生ぶから西本願寺へ移ったのちの慶応元年(65年)閏うるう五月、松本がいまでいう隊士らの集団検診を行った際、「難患(難病の患者)は心臓肥大と肺結核と二人のみ」という結果になっているからだ。

 心臓肥大患者はその年の十一月に亡くなった尾関弥四郎とみられ、肺結核患者は沖田のことだろう。総司が慶応四年(68年)五月三〇日、肺結核で亡くなったのは事実だが、その悲劇性は脚色されていたといえる。

跡部蛮(あとべ・ばん)歴史研究家・博士(文学)。1960 年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士
後期課程修了。著書多数。近著は『超新説で読みとく 信長・秀吉・家康の真実』(ビジネス社)。

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