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北野武新作「首」、プロが見た驚きの感想【後編】 「次回作への期待が膨らむ」その納得の理由は?

東洋経済オンライン / 2023年11月23日 11時1分

北野武監督の最新映画『首』が11月23日に公開された。本作が「価値ある失敗作」であることの真意について考えてみる(写真:映画『首』公式サイトより)

北野武監督の最新映画『首』が11月23日に、ついに公開された。今年5月に行われたカンヌ国際映画祭では大きく話題になったが、「映画通」の文芸評論家・高澤秀次氏はどう評価するか──。

高澤氏は「日本映画大学」の前身となる「日本映画学校」では講師を務め、近畿大学大学院では大島渚、吉田喜重、鈴木清順などの作品について講義を行い、苫小牧駒澤大学(現・北洋大学)では宮崎駿全作品の解読も行っている。

北野武監督に関しては1985年に『ビートたけしの過激発想の構造』(KKベストブック)を上梓したことがある高澤氏が、新作映画『首』について独自目線でひもといていく。

※本記事は多くのネタバレを含んでいますので、まだ映画を観ていない人はご注意ください。

*この記事の前半:北野武新作「首」、プロが見た驚きの感想【前編】

着々と映画的な「軍団」を築き上げてきた北野武監督

前回は北野武監督の新作『首』をめぐり、失敗作の理由について述べたが、今回はそれが「価値ある失敗作」であることの真意について考えてみよう。

【写真でわかる】本日公開!6年ぶり北野武監督最新作「首」、「キャスティングは成功」とプロも認める、その「内容」は?

まずはキャスティングの勝利によって、『首』は次回作への期待を膨らませることに成功していることが挙げられる。

かつて俳優・津川雅彦は、北野映画への批判を、「役者を育てもせずに」と嫌みたっぷりに語ったものだ。

だが、出来上がった俳優を集めて映画を撮ることは、撮影所システムとはまったく別の場所から出てきた、このたぐいまれな映像作家にとって、自明の条件にすぎなかっただろう。

ただ、監督に予定されていた深作欣二のスタッフを引き継いで撮った処女作『その男、凶暴につき』(1989年)以後、北野は着々と映画的な「軍団」(北野組に加わることは今や俳優のステータスになっている)を築き上げてきた。

今回も常連の俳優では、すごみある狂気の信長を演じた加瀬亮を筆頭に、浅野忠信、勝村政信、寺島進、大森南朋らおなじみの面々が脇を固めている。

ここに、西島秀俊、中村獅童、遠藤憲一、木村祐一、小林薫といった新顔が加わり、北野ワールドは豪華絢爛に厚みを増すことになった。

これは次回作へのアドバンテージであり、後期高齢者となった監督は、チーム編成上の「伸びしろ」を確保したことになろう。

日本映画の「古さ」と「新しさ」を痛感した国際映画祭

内容的に看過できないのは、今回、男色を正面から取り上げたことである。

セクシュアリティーの表現に関しては、大島渚からの影響を指摘しておかねばならない。

周知のように俳優ビートたけしは、大島の『戦場のメリークリスマス』(1983年)で鮮烈な印象を残した。

インドネシア・ジャワ島の日本軍捕虜収容所でのヨノイ大尉(坂本龍一)の英国陸軍少佐ジャック・セリアズ(デヴィット・ボウイ)への恋情を描いた本作で、たけしのハラ軍曹は、こうした男色的嗜好や主題の外にある存在だった。

ちなみにこの大島作品は、同年のカンヌで今村昌平の『楢山節考』(最高賞のパルム・ドールを受賞)の前に一敗地に塗れている。

経済大国の余勢を駆った、イエローがホワイトを捕虜にする映画を拒否したカンヌは、「日本人よ、出しゃばらずに、近代以前の楢山の闇に沈んでおれ」という、暗黙のメッセージを発したことになる。

北野武はその「古さ」と「新しさ」の対比を、国際映画祭という場で痛感したに違いない。後に彼の手がけた『座頭市』や一連の「ヤクザ映画」は、「国内向け」ではなく、「海外向け国際映画」を意識して撮られることになる。

そして時を隔てた1999年の『御法度』である。

ここで大島渚は、幕末の新撰組という男だけの集団の「女嫌い」(ミソジニー)と「同性愛恐怖」(ホモフォビア)に基づく「男同士の絆」が、松田龍平演じる美少年の加入でかき乱され、何とかその秩序を保つために彼を排除するという、ホモソーシャルな男性集団維持のストーリーを提示した(原作は司馬遼太郎『新撰組血風録』より「前髪の惣三郎」「三条磧乱刃」)。

「ホモセクシュアルな無秩序」を排し、「ホモソーシャルな秩序」を再強化するという物語展開である。

日本においては、夏目漱石(『こころ』、『それから』など)だろうと小津安二郎(『秋日和』に典型的)だろうと、女性は宿命的に「男同士の絆」の蚊帳の外に置かれるのがつねであった。

北野監督が一貫して回避してきた「シャイネス」とは?

ところで、たけしが『御法度』で演じたのは土方歳三である。ここでも彼は、ホモエロティックな関係の外に置かれていた。

美少年を斬るのは沖田総司であり、歳三のたけしは切断されたホモセクシュアリティーを確認するように、ラスト近くで満開の桜木をぶった切って見せる。

ここに、『雨月物語』(上田秋成)の「菊花の約(ちぎり)」というホモ話が接続されるのだから、阿部定事件(性交中に男性を絞殺、局部を切り取った1936年の猟奇事件)に想を得た『愛のコリーダ』(1976年)の大島渚が、ヘテロセクシシュアルな関係の極点から、どのような方向に舵を切ったかは明瞭である。

その経緯を見届けていた北野武の新作『首』は、大島がホモソーシャリティに回収した主題を、いわばエスカレートする形で男色というテーマの特化に挑んだ。

重要なのは北野監督が、ビートたけし演ずる秀吉を、土方歳三と同様に男色関係の外に置き、セクシュアリティーの乱れや危機の部外者として設定したことだ。

信長(男色ハラスメント)や家康(マゾヒズム的醜女好み)のいびつな性を暴いた北野武は、周到に秀吉のエロス(男色を忌避した性豪で知られる)を封印している。

それこそが、『その男、凶暴につき』以来、暴力の突出によってまともな性表現を一貫して回避してきた彼のシャイネスであり、この作品の肝なのだ。

策に溺れそうで決して溺れることのない、秀吉のシニシズム。

その不気味に冷ややかな表情は、信長役の加瀬亮や光秀役の西島秀俊のように、手の込んだ役作りによるものではなく、精確にプロデューサー不在のこの作品を、孤独に監視する「武=たけし」その人のクールな視線に支えられている。

この「価値ある失敗作」を糧に、さて、彼は次にどんな手を打ってくるだろう。

公開を前にした今月15日の日本外国特派員協会(東京・丸の内)での記者会見で、すでに制作に入った次回作のテーマについて、パロディをキーワードにした「暴力映画におけるお笑い」と抱負を語った北野監督。

新境地をひらく快作を期待したい。

*この記事の前半:北野武新作「首」、プロが見た驚きの感想【前編】

高澤 秀次:文芸評論家

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