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仇敵・島津久光を屈服させた西郷隆盛「人望」の力 言葉を介さず存在そのもので納得させる凄み

東洋経済オンライン / 2023年12月13日 10時30分

明治政府が目指したのは、欧米列強に侵食されない国づくりです。環境の危機が、彼らの世界観をつくっていきます。龍馬の理想と彼らの世界が同じだったかどうかは微妙でしたが、向かう道は同じでした。新しい日本をつくるためには、それまでの「藩」の集合体による連邦国家の体制や、身分に囚われた人材登用では限界がありました。

そして、その最大の改革が廃藩置県でした。大名と藩という最大の利権を解体したのです。そこには幕府を倒した功労者である薩摩藩や長州藩も含まれました。この難題を誰が担当するのか。明治政府の要職につく者は、ほとんどがかつては身分の低い武士です。時代が時代であれば殿様など一生見ることができなかったかもしれません。かつての主君に、握っている権力を手放すように言わなければならないのです。

これを担当したのが、西郷隆盛でした。西郷は、明治維新で最大の功績のある薩摩藩から、廃藩置県を行うための版籍奉還(藩主が領地と人民を朝廷に返すこと)を行わせることにしました。その交渉相手は、西郷にとっては主である島津久光です。

久光は、西郷にとって関係性の良い主ではありませんでした。むしろ最悪と言ってもいいでしょう。久光の兄である島津斉彬の秘蔵っ子であった西郷は、ことあるごとに久光と対立しました。久光は西郷を憎み、2度にわたり島流しにします。2度目は明らかに殺意のある過酷な島流しでした。

しかし、激しく変わる情勢に対応するために大久保利通らが動き、西郷は政治の表舞台に返り咲きます。久光にすれば、やむなく登用しただけであり、本音は憎んでも憎みきれない相手でありました。西郷にとっても、久光に受けた数々の仕打ちは決して許せるものではなかったと思われます。

久光は、できることならば反抗したかったでしょう。しかし、結局、久光は西郷の前に屈服します。それは薩摩の武士たちのほとんどが西郷に服していたからです。幕末から戊辰戦争を通して、西郷は「藩」という小さな視座から、日本全体を考えられる大きな視座を持つことができました。それゆえに彼は「江戸城無血開城」をはじめ敵である徳川幕府に対しても寛容であり、一刻も早く新しい日本をつくりあげようとしたのです。

言葉による説得をする必要がなかったカリスマ

そして、日本中の武士たちにとって、西郷そのものが一つの世界観でした。語らずとも納得させる。人望の極みは、言葉を介さず存在そのもので納得させることです。

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