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「厳島の戦い」毛利元就の"気象を読む力"のすごさ 城好き人気気象キャスターが語る「城と名将」

東洋経済オンライン / 2024年3月29日 18時0分

形勢が不利になった陶晴賢は係留していた船で逃げることを考えて、島の西の大江浦(おおえのうら)という港に向かいます。しかし、船はそこにはありませんでした。村上海賊によって、あるいは暴風雨で破壊されてしまったのでしょうか。

追いこまれた陶晴賢は自害しました。勝利した元就はさらに勢力を拡大し、中国地方一の戦国大名になっていきます。

一方、陶晴賢は自害、大内氏は急速に衰退しました。のちに大内義長は自害させられ、大内氏は滅亡します。厳島の戦いが、それぞれの明暗を分けたといっても過言ではありません。

奇襲攻撃を10月1日にした理由

台風が元就の奇襲攻撃の味方をしたのは単なる偶然だったのでしょうか? 元就はこの時期に天気が荒れることを知っていて、好機を狙っていたのでしょうか? 

あるいは、情報網を張りめぐらせていて、厳島より先に天気が変わる地域から、暴風雨の知らせを受けていた可能性もあります。

知将として知られる元就であれば、嵐の"サイン"に気づいていたかもしれません。

海では台風が近づく前から波が高くなります。高波(波浪)には、その場で吹く風による「風浪」と、台風などの影響で離れた海域から伝わってくる「うねり」があり、両者は波長や周期が違います。

海を熟知して水先案内人として収入を得ていた村上海賊の中には、うねりが届き始めた段階で、次第に天気が荒れることを察知した人がいたのではないかと想像が膨らみます。 

そもそも奇襲攻撃を10月1日にした理由は、前夜が新月だったからという可能性があります。台風が来なくて晴れていたとしても、闇夜だったので、敵に気づかれないように厳島に上陸するには適していたのです。この点からも、元就あるいは村上海賊の天気や天体への関心の高さを感じます。

一方で、陶晴賢が天気にもっと意識を向けていて、その“サイン”に気づけていたら、歴史は変わっていたかもしれません。

台風はもともと「大風」

台風の歴史をひもとくと、平安時代の『源氏物語』や『枕草子』に「野分(のわき)」という言葉が使われています。野の草を分ける強い風ということで、現在の台風にあたると考えられます。

明治時代まで強風のことを「颶風(ぐふう)」と表現していました。日常用語としては「大風(おおかぜ・たいふう)」が一般的だったようです。明治時代末に、のちの中央気象台長で“気象学の父”と称される岡田武松が「颱風(たいふう)」と学術的に定義し、1946(昭和21)年に当用漢字が定められて「台風」になりました。

「猛烈な」「非常に強い」など台風の強さを表す表現、「超大型」「大型」という台風の大きさを表す表現の基準は、どちらも風です。

台風というと風だけでなく雨も強まりますが、背景を知ると、昔から台風といえば、強い風のことだったからかもしれないと推察できます。

広島県 宮尾城(特別史跡名勝/厳島全島)
広島県廿日市市宮島町厳島要害山
JR広島駅から宮島口駅へ(約30分)。JR宮島フェリーで宮島桟橋へ(約10分)。徒歩8分

久保井 朝美:キャスター、気象予報士、防災士

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