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<Wコラム>「両班」を知れば韓国社会がわかる!

Wow!Korea / 2016年9月24日 10時35分

そのように学問重視の家風を持つ豊山柳氏を代表する人物が柳成龍(リュ・ソンリョン)である。

■諸葛孔明よりも優れた人物

柳成龍は朝鮮王朝518年の間でも中興の名宰相といわれたほどの政治家で、同時に優秀な学者だった。

25歳で科挙に合格してから、総理大臣に当たる領議政(ヨンイジョン)にまで上った柳成龍は政治家としても有名だが、学問においても中国の学者たちから先生と呼ばれたほどの最高の知識人だった。リュ・シウォンは柳成龍の13代目の子孫に該当する。

なお、柳成龍は、日本とも深い関わりを持っている。

というのは、彼は1592年に豊臣秀吉軍が攻めてきたときに、総理大臣として活躍して国を守ったのである。当時、200年間戦争を知らないまま平和に暮らしていた朝鮮王朝は、戦国時代を経て最強の軍事力を持った日本になすすべもなく攻められた。そんな状況の中で柳成龍は危機に処した国を救うため、政治や外交、軍事のあらゆる面で手腕を発揮した。彼は混乱した情勢の中で対立した意見を仲裁し、知られざる人材を発掘して積極的に登用した。

彼の師で当代最高の学者だった李退渓(イ・テゲ)は柳成龍を「天から授けられた人材」と評したし、主君である朝鮮国王の宣祖(ソンジョ)は柳成龍を諸葛孔明よりも優れた人物だと称賛した。

このように、国の中心に立ってめざましい活躍をしていた柳成龍だが、一家の主としては優しい父で、率先垂範して家の中に読書する雰囲気を作っていた。

最高位の公職にいた彼だが、子女たちによく手紙を出して励ましながらも、ときには叱り、ときには助言するのを忘れなかった。一国の総理大臣を務めながら、しかも戦乱の中に5人もの息子の学問にいつも気をつけるというのは普通の人では真似ができないことだろう。

■生きている両班

柳成龍は公職者として清廉な生活をした。彼が世を去るときは、葬礼をする金さえなかったという。彼は中央の漢陽(ハニャン/今のソウル)でも、官職を務めながら自分の家がなく、借家に住んでいた。引退後も、故郷に草庵を作って余生を送った。

これだけの人物なら、様々な誘いを受け、財物も届けられるだろう。しかし、柳成龍は乱れなかった。当時は当然とされた妾もいなかった。自分の人間性を磨き、誰にも恥じない生活を送ったのだ。

柳成龍は戦乱という危機の中で、国と民のためにすべてをかけられる強さを持ち、同時に子女を可愛がって大事にする優しさも併せ持っていた。まさに、朝鮮王朝最高の人物だった。

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