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歴史の中の多様な「性」(2)

ニューズウィーク日本版 2015年12月1日 17時26分


論壇誌「アステイオン」(公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会編、CCCメディアハウス)83号は、「マルティプル・ジャパン――多様化する『日本』」特集。同特集から、自身トランスジェンダーであり、性社会・文化史研究者である三橋順子氏による論文「歴史の中の多様な『性』」を5回に分けて転載する。


※第1回:歴史の中の多様な「性」(1) はこちら

「男色大国」としての日本

 皆さんは「白袴隊(びやつこたい)」をご存じだろうか? 戊辰の年(一八六八年)の会津戦争で華と散った会津藩の少年部隊「白虎隊」ではなく、明治三〇年前後の東京で美少年とその親たちを震撼させた不良男色学生集団だ。正岡子規の句に「遣羽根(おいばねや) 邪魔して通る 白袴隊」(一八九九年)とあるように、正月の晴れ着姿で羽根つきをする少女たちに目もくれず美少年を追い掛け回す連中で、仲間の目印として白い袴をはいたことから、その名がある(古川誠「白袴隊」『性的なことば』講談社現代新書、二〇一〇年)。

 子規の句が詠まれた一八九九年(明治三二)三月、海軍予備学校の生徒で白袴隊員である二人の青年が、学校から帰宅途中の少年三人に声をかけ、その内の一人を口説いたが断られた。すると、青年たちは少年を力ずくで路地に連れ込み強姦しようとしたが、残り二人の少年が騒いだので未遂に終わるという事件が起こった。現場は東京の麹町区山元町(現・千代田区麹町)で、発生時刻は午後二時ごろ。白昼、皇居の半蔵門に程近い住宅地で強鶏姦(強制的な肛門性交)を企てるとは、なんとも大胆、傍若無人な行動である。

 当時の新聞には、こうした事件がしばしば掲載されている。発生場所は学校が数多く立地していた麹町区(現・千代田区の大部分)や牛込区(現・新宿区東部)の神楽坂周辺が多く、まさに美少年にとっての危険地帯だった。当時の地名で麹町区永楽町、現在では丸の内のオフィス街や東京駅になっているあたりの原っぱも、男色学生にとっては格好の「狩場」だった(古川誠「原と坂─明治の東京、美少年のための安全地図─ 」『性欲の研究 東京のエロ地理編』平凡社、二〇一五年)。

 少女をもつ親が外出した娘の帰りを心配することは昔も今も変わりがないが、当時は少年をもつ親も息子が襲われて犯されないか心配しなければならなかった。それだけ、明治の日本は、とくに学生の間で男色が大流行していたのだ。

 こうした学生の男色文化は、一四歳から二〇歳までの少年・青年で組織される「兵児二才(へこにせ)」制と呼ばれる薩摩藩特有の教育訓練システムに顕著な年長の少年が年少の少年を犯す男色文化が、旧薩摩藩出身の学生によって東京に持ち込まれたとする説が当時から根強い。好ましい年下の少年を「ニセさん」とか「ヨカチゴ」と薩摩言葉で呼ぶのがその証拠だとされた(谷崎潤一郎「幼少時代」一九五七年)。こうした習俗は、学校教育の普及とともに、軍人の養成学校や全国の(旧制)中学・高校に広がっていった。

 明治時代だけでなく昭和戦前期まで、あちこちの学校で上級生が下級生の美少年に目をつけ、恋文を送ったり、口説いたり、さらには寄宿舎のベッドで襲ったりという行為が頻発していた。

 谷崎潤一郎賞を受賞した加賀乙彦『帰らざる夏』(一九七三年)は、終戦時に陸軍幼年学校の生徒だった一六歳の少年が主人公だが、終戦を告げる天皇の玉音放送を聞いた後、「念友」(男色関係)の幼年学校の先輩と共に自決してしまう。ちなみに、東京陸軍幼年学校の所在地は牛込区の市ヶ谷台であり、先に述べた少年にとっての危険地帯の中核である。

 学生文化としての男色文化の衰退が決定的になるのは、戦後の中学・高校の男女共学化を待たなければならない。それでも私立の男子高や、北関東・南東北の県立男子エリート高などでは、そうした気風が残っていた。

 日本近代の学生文化に男色文化が濃密にまとわりついていたことは、旧制中学・高校の卒業生なら、実体験、あるいは見聞として知っているはずである。しかし、戦後に強まった同性愛嫌悪の風潮の中で彼らは口を閉ざし、知らないふりをしてきた。そして、その世代の存命者が少なくなった今、ほとんど忘れ去られようとしている。

 たとえば、「硬派」「軟派」という言葉がある。「硬派」は、現在では質実剛健で恋愛にストイック(自己規制的)な青年というニュアンスで用いられるが、本来は少年を追いかける「男色好み」の意味だ。「軟派」は現在では「ナンパする」(街で女性に声をかけて誘う)という動詞形で使われることが多いが、本来は好んで遊廓に通うような「女色好き」を意味する(森鷗外『ヰタ・セクスアリス』、一九〇九年)。

 明治大学文学部の「ジェンダー論」の講義で、そんな話をしたら、講義の後、いかにも運動部らしい体つきの男子学生がやってきて「自分は今までずっと『硬派だ』と周囲の人に言ってきました。今日の先生のお話を聞いてとてもショックでした。どうしましょう」と言う。見れば、心なしか顔が青ざめている。かわいそうなので「さっき説明した硬派=男色の意味は、もうだれも知らない死語だから大丈夫ですよ」と言ってあげた。この学生は、たまたま変な先生の講義を受けて、「硬派」の本来の意味を知ってしまったので、もうやたらとは使わないだろうが、知らずに「硬派」を自称している男子学生はまだまだいるに違いない。

 このように近代になってからも、日本では男色文化が濃厚に残存していた。前近代においては男色の比重はもっと高く、世界的に見ても「男色大国」と言える状態だった。

 たとえば、一五七九年(天正七)に来日したイタリア人宣教師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノは「彼らはそれ(男色)を重大なことと考えていないから、若衆たちも関係のある相手もこれを誇りとし、公然と口にし、隠そうとはしない」と批判している(『日本巡察記』平凡社)。一六一九年(元和五)来日の第八代オランダ商館長フランソワ・カロンも「貴族の中には僧侶並に男色に汚れている者があるが、彼らはこれを罪とも恥ともしない」と記している(『日本大王国志』平凡社)。

 まあ、同性愛を背教行為として厳しく禁じているキリスト教の宣教師が日本の男色文化を口を極めて批判するのは当然のことだが、商館長がヨーロッパから極東までの長い道のりで見聞してきた国の中で、とりわけ男色文化が盛んなのが日本であったことは間違いなさそうだ。

 ところで、私は男色文化の形態を年齢階梯制と異性装(女装)を基準に四類型化している。

Ⅰ 年齢階梯制を伴い、女装も伴う男色文化
Ⅱ 年齢階梯制を伴い、女装を伴わない男色文化
Ⅲ 年齢階梯制を伴わず、女装を伴う男色文化
Ⅳ 年齢階梯制を伴わず、女装も伴わない男色文化

 この四類型で、ほぼすべての男色文化が類型化できる。Ⅰは中世寺院社会の女装の稚児や江戸時代の陰間などに、Ⅱは安土桃山〜江戸時代の武士階層の「衆道」、薩摩藩の「兵児二才」制、明治〜昭和戦前期の美少年愛好(硬派)の学生文化など、Ⅲは現代の「ニューハーフ」や東京新宿(歌舞伎町・新宿三丁目)の女装コミュニティなど、Ⅳは現代の東京新宿二丁目「ゲイタウン」などに見られる形態に相当する。

 ちなみに、年齢階梯制を伴う男色とは、能動の側としての年長者と受動の側としての年少者という役割が厳格に決められている男色の形である。年少の少年が成長して年長になり、あるいは元服して大人になると、今までの受動側から能動側に転じて、年少者を犯す側に回る。こうして年少者=受動─(成長・元服)→年長者=能動というサイクルが繰り返され、それによって男色の精神と肛門性交の技術が継承され永続性が保たれた。つまり、年齢階梯制は、男色という性愛形態を社会の中に安定的に存在させるための重要な仕組みであり、前近代の日本の男色は、年齢階梯制を基軸にしたシステムだった。

 重要なことは、日本の伝統的な男色文化では、年齢階梯制を伴わず、女装も伴わない形態(Ⅳ)、つまり大人の男同士の性的関係は、個人の欲望としてはあっても(たとえば、平安時代末期の最上流貴族藤原頼長)、社会システムとしては存在しなかったということだ(三橋順子「『台記』に見る藤原頼長のセクシュアリティの再検討」『日記・古記録の世界』思文閣出版、二〇一五年)。

 Ⅳのような女装を伴わない大人の男同士の同性愛の形態は、近代になって、大正から昭和に入る頃から社会の表面にちらちら現れてくる。東京浅草公園六区にあった「瓢箪池」の畔は、そうした人たちの出会いの場だったが、やはりマイナーの中のマイナーという感じだった。現在の同性愛文化の中心になっているⅣの形態が、いつどうやって主流化したのか? かなり重要な課題だと思うが、実はまだよくわかっていない。現代のゲイの人たちはそうした形が当たり前だと思い込んでいるから、きちんと調べようとしないのだろう。

 少し予察を述べると、一九五〇‐六〇年代の男性同性愛の世界で活躍していたのは「シスターボーイ」とか「ゲイボーイ」とか「ブルーボーイ」とか呼ばれていた人たちだった。現在のゲイ業界で大御所的存在である美輪明宏さんは「シスターボーイ」の元祖だし、カルーセル麻紀さんは「ゲイボーイ」出身で「ブルーボーイ」として世に出た人だ(三橋順子「ゲイボーイ、シスターボーイ、ブルーボーイ」『性の用語集』講談社現代新書、二〇〇四年)。これらの呼称はどれも「ボーイ(少年)」がつく。この時期くらいまでは、年齢階梯制に起源する少年愛の感覚が強く残っていたのではないだろうか。ちなみに稲垣足穂『少年愛の美学』(徳間書店)が刊行されたのは一九六八年だった。

 現在、男性同性愛(ゲイ)といった場合、多くの人がイメージするだろう大人の男同士の性的関係(Ⅳ)が主流化するのは、どうやら意外に遅く、一九七〇年代以降なのかもしれない。もしそうなら、それだけ伝統的な男色文化の影響が根強かったということになる。

 まだまだ、わからないことが多すぎる。

※第3回:歴史の中の多様な「性」(3) はこちら

[執筆者]
三橋順子(性社会・文化史研究者)
1955年生まれ。専門はジェンダー/セクシュアリティの歴史。中央大学文学部講師、お茶の水女子大学講師などを歴任。現在、明治大学、都留文科大学、東京経済大学、関東学院大学、群馬大学医学部、早稲田大学理工学院などの非常勤講師を務める。著書に『女装と日本人』(講談社)、編著に『性欲の研究 東京のエロ地理編』(平凡社)など。

※当記事は「アステイオン83」からの転載記事です。





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『アステイオン83』
 特集「マルティプル・ジャパン――多様化する『日本』」
 公益財団法人サントリー文化財団
 アステイオン編集委員会 編
 CCCメディアハウス


三橋順子(性社会・文化史研究者)※アステイオン83より転載

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