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「移民は敵ではない、ブラック労働に苦しむ日本人が手を繋ぐべき相手だ」

ニューズウィーク日本版 2019年4月18日 13時30分

<4月1日、改正入管法が施行され、外国人労働者の受け入れ拡大が見込まれている。そんな「移民国家」に生きる私たちにとって「彼ら」は敵なのか? 『ふたつの日本――「移民国家」の建前と現実』を上梓した気鋭のライター・望月優大氏に聞いた>

望月優大(もちづき・ひろき)、33歳。日本の移民文化・移民事情を伝えるウェブマガジン「ニッポン複雑紀行」の編集長を務め、昨今の日本の移民をめぐる問題について積極的に発信を続けている。今年3月には、自身初の著書となる『ふたつの日本――「移民国家」の建前と現実』(講談社現代新書)を上梓した。

4月1日に改正入管法が施行され、「特定技能」という新たな在留資格での外国人労働者の受け入れがスタートした。今後5年間で、新たに最大34.5万人の外国人労働者が日本にやって来ることが見込まれる。

そんな今の日本を、望月はどう見ているのか。なぜ彼は、「移民」について考え発信するのか。

『ふたつの日本』は、「移民国家・日本」の状況を歴史的な背景と今日的な事情から丁寧に読み解きながら、その全体像を客観的なデータを豊富に使って提示していく――そうして炙り出された問題点に、望月自身がこの国に生きる1人として誠実に向き合おうとする姿勢がにじみ出ている良書だ。

発売から1カ月がたつなか各方面でも話題を集めているが、これを読んだ人はきっと、「望月優大の頭の中」についてもっと知りたくなるだろう。同書に紡がれた彼のまなざしと哲学、その源泉とも言える他者に対する想像力はどこから来るのか。それを探るべく質問をぶつけてみると、望月はときに言葉を止め、沈黙し、うーんと考え込みながら答えてくれた。

◇ ◇ ◇

――『ふたつの日本』の「はじめに」で、「日本では長らく『移民』という言葉自体がタブー視されてきた」と書いている。「『移民』と生きていくことに困難を抱える『私たち』」、とも。日本人は何を「困難」だと感じているのだろうか。

少なくない日本人は、この国に「移民」が存在していると認めること自体に困難を抱えているのではないだろうか。日本は単一民族国家で、極めて同質的な日本文化がある、移民はいない――そういう国で暮らしているとイメージし、自己認識してきた部分を更新しなければならない、そのことに困難を抱えているという意味で。

政府が外国人労働者の受け入れ拡大について「移民政策ではない」という言葉を使うのも、そういう言説を支持し、欲する人々がいるからだろう。

この国に定住していく外国出身の人たちが増加していくということに対して、「そりゃそうだよね」とフラットに認識して前向きに考えていくこと自体をまだ受け入れられない、困難な部分があるのではないかと思っている。

例えば同じ団地内でのゴミ出しの話など、一緒に暮らしていく上での具体的な難しさを感じるという方もいると思うが、「はじめに」に書いたことはもっと広い文脈で、外国出身の人が増えていくこと自体を「なんとなく嫌だな」とか、そういう気持ちを持っている人たちが多くいるのではないか、という意味だった。

――例えばアメリカのトランプ支持者など、海外で移民受け入れに反対する人からは、移民に自分たちの仕事が奪われるのではないか、という声も聞かれる。著書で紹介している92年に閣議決定された「第7次雇用対策基本計画」には、単純労働者受け入れによる懸念事項として、外国人が日本人(特に高齢者)の仕事を奪ってしまうのではないか、社会的費用の負担が大きくなってしまうのではないか、とも書かれている。今もこの点は懸念事項として変わっていないのだろうか。

まず、仕事の奪い合いについては状況によっては起こり得ると思うし、起こらないと言うつもりは全くない。例えば今の日本では外国人労働者が150万人近く働いているが、それを明日から10倍の1500万人にしたらどうなるかと言えば、それは起こるだろう。経済の状況の中で、外国人労働者の受け入れに適切な人数というのはあると思う。

だが、なぜそもそも今、日本が外国人労働者の受け入れをこんなに進めているのかというと、特に日本人を雇用できない地方の産業や、これまで学生アルバイトに頼ってきたコンビニなどでの人手不足という側面が大きい。人手不足の背景として、現役世代が少なくなる形で人口のバランスそのものが悪化している。

そういう構造的な要因がとても大きいので、外国人労働者を一定程度受け入れても、もともと日本人を採用できていない中での話なので、いわゆる奪い合いのような状況は少なくとも今の日本では起きていないのではないかと思う。

あともう1つ言われるのは、外国人を低賃金の労働者として受け入れることによって賃金が上がらなくなるんじゃないかという懸念だ。これは現実によく考えたほうがいいと僕は思っている。

日本の経済は他の先進諸国に比べて賃金が低く抑えられている部分が大きく、平成に入ってから実質賃金や可処分所得が停滞していて、日本人の労働者の生活水準がほとんど上がらなかった。日本人労働者であれ外国人労働者であれ、賃上げを進めていかないと一般の人の生活は改善していかない。

日本はそもそも不景気である中で、日本人の労働者も正規から非正規に代替していったり、安い労働力に切り替えていくということをこの30年間ずっとやってきた。外国人労働者の受け入れ拡大も、そうした大きな流れの一環だったと僕は考えている。



――望月さんは、外国人労働者をこれからもたくさん受け入れていったほうがいいという立場なのか。

(熟慮の上で)その質問は答えるのがとても難しいのだが、僕が考えているのは、「労働者として受け入れる」ということだけを前提に考えるといろいろと問題が起きるのは経験上明らかだ、ということだ。

取材をしているなかで、30年ほど前にペルーから来て日本でずっと働いているが日本語を勉強する機会がなかった、と言う声を聞くこともあった。この社会で長く暮らしていく前提で日本語をしっかり学ぶ機会を保障するとか、子供たちが学校にちゃんと行けてそこでいじめられないとか、病院などさまざまな場所で最低限の権利を保障するとか、しかるべき処遇を受けられるように社会的インフラを整えていく――そういうことをせずに、「工場の中だけの存在」というとりあえずの考えで受け入れていくと、いろいろと問題が起きてくる。

日本の経験としても分かっているし、諸外国の経験としても明らかなので、その点が準備できていることを前提として受け入れたほうがいい。社会の側がいろいろと準備しなければならないことがあるが、1万人受け入れるのと100万人受け入れるのでは準備しなければいけない量は100倍違う。

そういう意味で、社会が受け入れられる量というのは、単純にどれだけ人手が足りていないかという話だけではなく、受け入れ側のリソースや支援面の準備がどれくらい出来ているかにも大きく関わると思う。今はそこがとても脆弱なので、しっかり整えていくという前提の下で受け入れていくべきだと思っている。

――「第7次雇用対策基本計画」には、外国人労働者の年金・医療など社会保障の負担や、外国人を実際に受け入れる自治体の負担が増えることへの懸念が透けて見える。この理由で移民受け入れに反対する、という人に会ったら何と言う?

日本に来て働いてくれている外国の人も普通に税金を払っているし、働いて貢献していたりもするので、日本人と同じ権利が保障されない筋合いは全くない。よく、生活保護を受けまくっているという言われ方もするが、全体として大きな差があるわけではない。そもそも労働者として受け入れている割合が多いわけだから、日本人に比べて労働者としての比率も高く、税金を納めている人の比率が少ないということもないだろう。

年金や健康保険など社会保障の多くについて――生活保護は違うのだが――制度的には内外人平等の原則に基づいてすでに国籍条項が撤廃されている。日本は81年に難民条約を批准し、その後社会保障については外国人であろうと平等にしようという流れが進んだ。つまり、実質的なアクセスさえ確保されていれば、外国人も年金や健康保険などを使えるということになっている。

社会保障については、着目しなければいけないのは制度面だけでなく、人々の「嫌だな」みたいな気持ちというか、困難に思う意識もそうだろう。貧しい外国人が日本の社会保障を食い物にしている、という現実に即していないイメージがまだあるので、そこはアプローチしないといけないところだ。それは事実ではないと伝えていくことが必要だと思う。

とても重要なのは、「日本人」と「外国人」という別々の存在がいるということではなく、この社会に長く暮らしていく人という意味ではどちらも同じだと考えることだ。

例えば、日本語ができないから仕事のレベルが上がらないとか給料が上がらないというのは、基礎的な権利の部分が剥奪されているのと変わらない。機会に対するアクセスがないという状況だ。

日本人に対しては、そこの平等性を担保すべく公教育を提供して15歳までみんなで勉強する。僕らもみんな、国語という形で日本語を教わってきた。外国人だけが日本語を勉強するわけではなくて、日本人も日本語を勉強して日本の労働市場の中で「ヨーイドン」でスタートを切るという、一応そういうフィクションになっている。

これは大事なフィクションだ。だが外国人に対しては、生活の中で自分でどうにかしてくれという形になっていて、そういう機会を実質的な形では保障されずにずっと暮らしている人たちがいる。



――外国人に日本語を学ぶ機会を提供し、ゆくゆくは外国人が日本人と同じ労働市場に入ってくる。そこを脅威に感じる人もいるかもしれない。

重要なのは、外国人の新規の受け入れをしない、縮小する選択肢もあるということだ。もちろん、今すでに日本で暮らしている人たちに対しては、日本人と同じように人権保障を絶対にしないといけないし、今は出来ていない部分があるのでしっかりやりましょうと思う。現在の日本では、すでに270万人以上の外国人が暮らしている。

だが新規の受け入れというのは、難民や家族の呼び寄せでない限り、縮小や停止をしてもいいと僕は思っている。母国で人権侵害に遭い難民として逃れてきた、という方たちについては絶対に受け入れないといけないが、例えば技能実習についてはやめるという選択肢があると思っている。

技能実習に限らず、外国人を労働者として新規に受け入れることについては、縮小したりやめるという選択肢はある。逆に言うと、受け入れたなら受け入れたなりのことをしなければならないという話だ。自分で受け入れておいて、受け入れるという選択をしておきながら、労働市場に入ってきたら競争が起きて嫌だというのは、何を言っているんだとなる。じゃあそもそも受け入れるなよ、という話だ。

労働市場の中で競争が起きているというのは別に外国人と日本人の間だけで起きているわけではなくて、国籍に関係なく人間と人間の間で起きている。例えば、2人の日本人が一緒に大学を卒業して、友達は行きたい企業に行けて自分は行けなかった、ということもあるだろう。でもだからといって、(日本人の競争相手)全員を排斥していけるわけがない。「外国人」とか「移民」というラベルが、目を曇らせている部分もあると思う。

「あとがき」にも書いたのだが、そもそも自分の中には「移民」という言葉を使うことに対するアンビバレントな気持ちというのがある。

このテーマは日本の中で過小評価されているので、しっかり知ってほしい、考えてほしいという思いもあるけれど、同時に「移民」という言葉や「外国人」というラベルみたいなものが独り歩きすると、本当はひとりひとり300万人近くの人がいるのに、「外国人」がいるんでしょ、「移民」がこうなんでしょ、という風に語られてしまうリスクもある。それは怖いなと思っている。

「移民」や「外国人」に自分の仕事が奪われるという、いろいろなものを省略しすぎている考え方にはできるだけ反論できるように、ひとつひとつの事例を伝えるルポみたいな作業もすごく重要だと思っている。だって、ひとりの「ナカシマ・ドゥラン」さん(編集部注:ニューズウィーク日本版2018年12月11日号「移民の歌」特集の望月さん執筆のルポルタージュで取材した在日28年の日系ペルー人)が目の前にいたら、この人に仕事を奪われる、とは思わないはず。

無名性の塊として「移民」や「外国人」と見るから、なんだかうーんと思うのであって。だからこそ、ひとりひとりに対する想像力を高めることで何とか出来ないかと思っている。それを高められるように、がんばりたい。



――想像力についてだが、望月さんは著書の中で、移民をめぐる問題は「彼ら」の問題ではなく、「私たち」の問題であると語っている。現代は「国家や企業が一人ひとりの人間たちから撤退する」時代であり、「社会的な支えを与える責任から国家が自らを解放しようとしている」。そしてここで言う「一人ひとりの人間」とは、外国人だけでなく「この国に生きるすべての人々」のことだ、と。

移民の問題を考えるとき、想像力がとても重要だと思うのだが、どうやったら想像力を持てるのか。自分の問題として考えるには、どうしたらいいのだろう。

今の社会は、基本的には経済の論理で動いているというか、資本主義の世の中だ。自分で自分の身を助け、家族や身の回りの人の生活を自分で助けていく。そのために競争があり、「自分にはこういう価値があるのだ」と世の中に対して表明してお金をもらい、自分の身を守っていくということがベースになっている。

それをいつの間にか教えこまれるというか、学校教育でもそうかもしれないが、特に社会、つまり労働市場に出てからそう痛感しながらみんな生きていると思う。できるだけ人より上に行かないといけないし、それは単純に名誉欲だけではなくて、負けるわけにはいかない、負けたら死んでしまうというサバイバル的な精神性で生きている、生きざるを得ない部分があると思う。

外国人に限らず、日本人に対しても手を繋ぐ相手というよりはライバルとして見てしまうこともあるだろう。そういった中で、「政治」を考えるとか「社会」を考えるという、別の思考が常に重要になってくる。

それはつまり、横にいる経済の側面ではライバルかもしれない人たちと、実はもっと広い視野で見たら同じような利害を共有していて、手を繋いだら自分たちにとって共通の利益を作り出せるかもしれない、そういう相手として見ることだ。

この2つの思考を使い分けることはとても難しくて、どうしても2つ目の思考を放棄してしまいがちになる。ゲームのルール自体が自分たちにとってどんどん損になっているなかで、その損なゲームの中でなんとか勝ち残れればいいという思考になりやすい。

でも、そもそもこのゲームのルール自体にみんなで手を繋いで改変を加えるというか、もっとこうしたいと言っていくような思考が広まればいいなと思う。そっちのサバイバルの仕方もあるというか。ひとりで孤独にサバイバルする以外の、もうちょっと社会的に手を繋いでいく生き延び方もあるのだと。

そう思ったときには、やはり味方をどれだけ多くするかのほうが重要になってくる。そうすると、日本人も外国人も同じようにこれまで保障されてきたものが少しずつ削り落とされている仲間として見たほうがいいんじゃないかなと思う。この本では、日本の人にそのことを伝えたかった、というのはすごくある。敵じゃないんだ、と。

でもそこに、「敵なんだ」とくさびを打ってくる人はいる。いわゆる右派のポピュリズムとはそういうものだ。本当は両方とも国家や企業から放置され、撤退されている人たちなのに、「移民や外国人労働者のせいで自国の労働者の生活が悪化しているんだ」という形で互いの対立をあおるような言説は、いろいろなところで言われてきた。

それが政治的な支持の調達に役立つということがいろいろな形で証明されてしまったし、それで大統領になれてしまった人もいるし、イギリスのEU離脱を決めた国民投票もそうだった。

だが、そこにくさびを打たせない、そのストーリーを信じないぞということを日本で暮らす人たちが思っておいてくれたら、とは思っている。こういう言説は日本で大きく顕在化しているわけではないので、どれくらい喫緊の課題かというのはまた別の話で、僕もあおりたいわけではないのだが。

でも心の備えとしてはすごく大事だし、そもそも手を繋ぐ相手として見るべきだということを何度も確認していきたい。



――手を繋いだほうがいいこととは、具体的には何がある?

日本人の労働者がサービス残業でブラック労働させられている話と、外国人のアルバイトや技能実習生がひどい状況にあるというのは、制度的な局面や状況の重さではひとりひとり違うと思うのだが、極めて近い問題だと思う。要は、そこから逃げられなくなっている。

日本人は技能実習生と同じように(主に来日するための資金として)100万円の借金を背負ってはいないかもしれないけど、せっかく雇ってくれたこの企業からクビにされたら自分はどうなるのだろうという不安から辞められないこともあると思う。それは、転職を禁じられている技能実習生が逃げたくても逃げられない状況にあるのと、精神的にはもしかしたらすごく近いのかもしれないし、構造的には極めて似通っていると思う。

そうしたときに、同じように厳しい状況にある人たち同士が対立するのではなくて、労働者としての権利をしっかり高めていこうという仲間として見られたほうが絶対にいい。それに、国全体でみるとお金持ちや資本家というのは割合としては極めて少ないわけで、ほとんどは「労働者」だ。

一般的な中間層より下の人たちの中に多くの外国人もいるし、多くの日本人もいる。なので、日本の「内と外」のように考えるフレームではなくて、やっぱりもっと日本の中の「上と下」というか、たくさんの貯金や資産があったりなどの後ろ盾がない普通で一般の人たちと、後ろ盾がある人たちと、その間で考えるべきだと思う。そこに、国籍の関係は基本的にはないと思っている。

もちろん、外国人であるがゆえの特別なケアというのは必要で、言葉の面などは特にそうだろう。数としては多いが女性であるとか、LGBTであるとか障害があるとか、マイノリティーだったりマージナル(周縁化)にされがちな要素を持っている人はいる。それぞれにスペシャルなケアがあったほうがいいということはもちろんそうで、でもそれと同時に、それぞれの特別さを認めながら手を繋ぐ必要がある。

先ほどの「移民」という言葉を使うか使わないかにも大きく関係することだが、つまりは、特別でもあり、ただ同時に同じでもあるということ。その特別さというのはそれぞれが違うものを持っているということであって、それをお互いに認識し合った上で、大事なのは手を繋ぐということではないか。少なくとも、そこにくさびを打たせないことがすごく重要だと思っている。

世の中には、外国人が増えると治安が悪化する、と報道するメディアもある。SNSでのつぶやきも含めて時に嘘が入っている情報もたくさんあって、実際にいっぱい読まれているし、本屋にもたくさん売っていて、そういう情報に接している人は多いと思う。

そのときに、ちょっと違うのかなと思ってもらえるといいなと思う。間違った情報も流れているなかで、この本にはできるだけファクトというかデータを多く載せて、ただの物語でしょうと思われないように書いたつもりだ。

――望月さんは、どうしてそういう想像力を働かせることができるのか。そもそも、なぜ移民の問題に取り組もうと思ったのか。東京大学大学院でミシェル・フーコーの自由主義論を研究し、経済産業省からグーグルなどを経て、たどり着いたのが日本の「移民」事情を発信するウェブマガジンの編集長。きっかけとして何か、自分の「移民性」のようなものを感じるなどの原体験があったのか。

「あった」って言えれば、格好いいんですけどね。「かつて......」、みたいな。あんまりないんですよね、僕それ。本当にない。実際のところ、いつもそこの語りを求められることに難しさを感じている。......いや、ないです。



――移民をめぐる問題について取材を始めてみたら、興味を持ったということ? 単純に、もっと知りたくなったとか。

うーん、なんですかね。うーーーん(悩む)。

先ほど話した「移民って、全員こうだよね」というステレオタイプみたいなものって、端的に言って間違っているじゃないですか。正しい情報ではないというか。「正しく」、というと語弊があるのだが、僕は「ちゃんと分かりたい」というのは常にある。

ちゃんと理解したい、という気持ちが何事に対してもあって、ちゃんと理解しようと思ったときに、例えば勉強しようと思うときって、それこそ統計や制度を勉強するとか客観的なデータや情報を見ていくというイメージだと思うのだが、僕の中ではそれだけではない。

それぞれの人が、そのときこういう風に思って、だからこうなっているのかなとか、あのときこういう考えに陥ったからこうなっちゃったのかなとか、そういう主観性みたいなものも、究極的には知り得ないのだが、「ちゃんと分かる」ということの一部としてあると思っている。

貧しい状況の人が、なんでお金がないのに無駄遣いしてしまったのかとか、パチンコで全部使っちゃったとか、それを「貧困でバカで自己責任だ」みたいな捉え方は、簡単ではあったとしても「正しく分かっている」ということではないと強く感じている。

なぜ今、目の前にいるこの人が自分で自分を追い込むようなことをしてしまったのかということを、ちゃんと分かろうとすると、こう......想像せざるを得なくなる。本当にお金がないということ自体は経験したこともあるが、自分には、お金がないのにパチンコに全部突っ込んじゃったという経験はないので。

でもある特定の経験がないから分からない、何も理解できないということでもないと思う。なくても完全に分かりますと言うつもりももちろんないけれど、当事者ではなくても想像することはできる。想像は常に間違っているかもしれないけれど、想像を諦めてとりあえずステレオタイプでよしとするよりは、いい態度だと思う。

僕は全ての社会問題に対して当事者であることなんて絶対にできないと思っているし、当事者性みたいなものを捏造して、自分は同じ体験をしているからあなたと同じことが分かりますよと言うつもりは全然ない。

だから、分からないこと、自分が経験していないことを目の前の人が経験していることに対して、できるだけ謙虚に想像させていただいているという......そういう感じかもしれない。それで、想像が間違っていたらすみません、直します、と。その態度はすごく大事だと、少なくとも僕自身は思っている。ただ、どうしても想像が及ばずに人を傷つけてしまうこともある、それを引き受けることも大切なことだと思う。

――見て見ぬふりをするとか、想像しないという選択肢もあるなかで、想像してみていいことって何だろう。

僕の場合は、自分と違うものに対しての関心があるのだと思う。それは道徳的な意味ではなくて、単に知りたい、分かりたいという気持ち。何でもそうで、子供から大人になっていくうちに、世の中のことを知りたいとか、友達のことを理解したいとか、そうやってどんどん広い世界を知っていって、自分の国以外のことを学ぶとか、いろいろなことを知ってきたのだと思う。

自分が過ごしてきたこの人生というのは他の人とは違うし、世界に75億個(の人生が)あるんだなということへの驚きがある。あとはやはり、ひとりひとりや社会について知っていくことに、究極的には喜びがあると僕は思っていて。それに尽きるのかなと思う。

自分の中にある他者への関心というのにちゃんと応えようとすると、人の話を聞くときは想像力をもって聞くことになると思うし、こういう本を作るときにも、できるだけ事実を突き詰めていくことがとても大事だと思う。

他者に対する関心に対して、ありもののステレオタイプでとりあえず応えるということは、ファストフード的で最も楽ではある。食欲にマック、という感じで。でもそれだと実際に自分の関心に対して応えていないと思うし、単純に、他者に対して誠実ではないと思う。

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『ふたつの日本――「移民国家」の建前と現実』
 望月優大 著
 講談社現代新書



小暮聡子(本誌記者)

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