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「心の専門家」に、ピエール瀧氏を「分析」させるメディアの罪

ニューズウィーク日本版 2019年4月19日 15時55分

<ピエール瀧氏をめぐる報道では、臨床心理士がわずか2分の映像をもとに瀧氏の「深層心理」を読み解くものまで登場した。一方、アメリカでは精神科医によるこうした行為の是非について活発な議論がなされてきた。「ゴールドウォーター・ルール」から日本が学ぶべき視点>

精神科医やカウンセラーがメディア上で、会ったことのない著名人について「診断」することはどこまで許されるべきだろうか。その行為は、倫理に反するのか?

ここ数年のアメリカでは、トランプ米大統領の支離滅裂な言動について精神科医がメディアでコメントすることをめぐり、激しい論争が起きている。

この論争には、歴史がある。鍵となるのは、アメリカ精神医学会(APA; American Psychiatric Association)が設けている「ゴールドウォーター・ルール(Goldwater rule)」と呼ばれる規定だ。そこには、「(メディアに対する一般的な知識の提供は問題ないが)当人に対して実際に診察を行い、かつ情報公開に対して適切な認可を与えられていない限り、精神科医が専門家として意見を提供することは非倫理的である」と書かれている。

このルールができた背景は、半世紀以上前に遡る。1964年の大統領選挙の際、アメリカの雑誌「Fact」が、共和党候補者であるバリー・ゴールドウォーター(Barry Goldwater)氏の適性に疑問を投げかけた。ゴールドウォーターは、差別的な言動を繰り返し、核兵器の使用をほのめかす過激な人物として注目されていた。

問題は、その記事の手法だった。「Fact」は多数の精神医学者にアンケートを取った上で、回答者の半数近くが「ゴールドウォーター候補が大統領としての適性を欠く精神状態であると判断した」と紹介。また、集まった回答の一部の記述を抜粋し、「パラノイア」「肛門期人格」「危険な異常者」といったコメントを掲載したのだ。

後にゴールドウォーターは、「Fact」を相手に名誉毀損の訴訟を起こす。そして裁判所は、「Fact」と編集者に対し、1ドルの補償的賠償金と、75,000ドルの懲罰的損害賠償を命じた。

この事件及び判決は、精神医療の専門家に波紋を広げた。判決の数年後、APAは「精神科医のための注釈を付した医療倫理綱領」(The Principles of Medical Ethics With Annotations Especially Applicable to Psychiatry)の第7条 に、先のゴールドウォーター・ルールを設けることとなった。そして、精神科医がメディアから、著名人についてコメントを求められた際、 一般的な知識の提供以上の発信をすることに警鐘が鳴らされたのである。

このルールは長らく自明視され,学術的議論の対象とはされてこなかった。しかし近年では冒頭に述べたように、特にトランプの発言をめぐって議論が本格化するようになった。



精神科医の社会的発言を禁じるべきか

精神科医・政治心理学者であり、CIAや議会で数々の証言を続けてきたジェロルド・ポストは、次のように述べている(2002)。APAの倫理規定はゴールドウォーター・ルールと同じ7条の別の項で、「公衆を教育し政府に助言すること」を精神科医の倫理としているが、これは時に、ゴールドウォーター・ルールとバッティングするのではないか。また、政治学者や歴史学者なども、著名人についての見解を述べて公共に貢献することがある。それなのになぜ精神科医だけは、公共の福祉に貢献すべき場面で沈黙しなければならないのかと。

ともに精神科医であるジェローム・クロールとクレア・パウンシーも、共著において基本的にはこの見解に同意する(2016)。そして、社会の脅威となる可能性のある人物について精神科医がコメントできず、パブリックな議論が抑圧されるのであれば、むしろその方が倫理に反すると論じた。

強い影響力を持つ政治家があからさまな精神的問題を抱えていることに気づいていてなお沈黙してしまうのであれば、むしろそれこそが罪深いのではないか。ならば、メディアでのコメント自制を求めるゴールドウォーター・ルールは、決して破ってはならない中核的倫理原則ではなく、単なるエチケットの地位に引き下げられるべきであると主張するのである。

一方でこうした議論は、ゴールドウォーター・ルールの文言が曖昧であるせいで混乱しているとする声もある。精神科医のジョン・マーティンジョイは、論文の中で「直接の診察と本人の同意を経ない限り、精神科医が公にコメントしてはならない」というゴールドウォーター・ルールの理解は、あまりに単純化されており、APAの本来の意図と異なっていると指摘した(2017)。このルールの意図するところは、精神科医の社会的発言の一切を禁じるものではないはずだと。

ルールはこれまで、APA会員による学会への質問とそれへの応答という形を取りながら、何を禁止し何を許容するのかの線引きを書き加えてきた。例えば、「歴史上の人物の精神状態を、記録にもとづいて分析することは非倫理的だろうか?」「保険金の支払いのために、事後的に行った分析を保険会社に提供することは非倫理的だろうか?」といった形で。それが忘却され、あたかも精神科医の発言を一律に禁止するかのように受け止められているのは問題だというのだ。



大統領の分析はそもそも裏付けに乏しい

マーティンジョイは、APAは会員である精神科医に「適切な権限を与えられた場で」「十分な情報にもとづいて行われ」「学術的なスタンダードを満たす限り」においては、直接の診察と本人の同意を経ない場合であっても、一定のコメントを許容していると見る。法医学者が法廷で行う証言、保険会社への情報提供、議会や情報機関での証言など、精神科医が倫理的に行いうる貢献は多岐に及ぶ。他方で、ことにメディアにおける精神科医のコメントは、これらの前提条件を満たさないため、精神医学と分析の対象への信頼を損なう非倫理的なものであるとしている、と考える。

どのような発言が、ゴールドウォーター・ルールによって禁止されるのか。その線引きは必ずしもクリアではない。だからこそゴールドウォーター・ルールは、報道する際の倫理を巡る議論の際にしばしば持ち出される。ジャーナリズムについて教えるメレディス・レヴィンは、今でもルールの機能を重視する一人である。

公衆を教育するのが精神科医の義務だとしても、マスメディアはそのために必要な丁寧な議論の場ではない。多くの報道は、厳しい締め切りなどにより、情報を十分に精査できない。そのため、不正確なパラフレーズや脱文脈化が頻繁化し、精神科医の啓蒙の努力は徒労に終わる。そもそも、限られた情報の中で行われる精神科医のコメントは、せいぜい「弱い仮説」に過ぎない。にもかかわらず、現在のメディア環境では、精神科医が付け加えた慎重な留保などはすっ飛ばし、確たる事実として伝えられてしまう。

テロや無差別銃撃事件のようなマス・バイオレンスの場合を考えてみよう。初期の、つまりは法廷での精査を経ない段階での情報は、いつも混乱している。その中で、記者が断片的な知識を提供した上で、精神科医に意見を求めたとしても、出されるコメントは当然不正確なものになる。

そもそもアメリカでは暴力犯罪のうち精神疾患の者によってなされるものは1割以下とされる。にもかかわらず、事件の衝撃に惑わされて,暴力犯罪と精神疾患に強い関連があるかのようにコメントをするのは問題がある。また、一つの事件の背景には、常に様々な要因がある。仮に実際、ある犯罪が精神疾患の当事者によってなされたとしても、それが「精神疾患が引き起こした犯罪」であるかは別だ。だが、専門家の「分析」は、こうしたバイアスを強化してしまう。

大統領の精神分析にも、問題が多い。そもそも分析対象となる大統領の発言とされるものが、裏付けに乏しいのだ。というのも、例えばトランプの支離滅裂な言動が、ゴーストライターが書いた文章なのか、秘書が公式アカウントから行ったツイートなのか、スピーチライターが書いた原稿なのか、事前に練られて演じられた役割であるのかといった、様々な可能性を排除できていないのである。そして暗に、または公然と、精神的に健康でなければ大統領に不適だというメッセージを伝えているのも問題であるとレヴィンは難じる。実際には、歴史上の卓越した政治家には精神的な問題を抱えていたと目される者も多いというのにもかかわらず、だ。

ゴールドウォーター・ルールをめぐる議論には、様々な立場がある。だが、多くの論客に一貫しているのは、専門家としての責務を果たせるのはいかなる仕方なのかを問うていることだ。また、「精神医学を装った攻撃」には、あくまで厳しい姿勢でいるという点も共通している。

改めて確認すると、ゴールドウォーター・ルールは絶対的な基準であるわけではない。また、APAに属さない人々の振る舞いを制約できるものでもない。しかし重要なのは、自らの専門知をいかに活用すべきか、専門家が信頼に足る存在であるにはどうすればよいのかを、専門家らが真正面から議論をしているという事実である。ルールをめぐる論争そのものが、専門家としての規律的振る舞いをアップデートしようとしているのだ。

そんなアメリカでも、メディア上には問題のあるコメントが溢れている。マスシューティング犯の「犯行動機」のプロファイリングなどの中に、「精神医学を装った攻撃」がしばしば見受けられてしまう。また冒頭で述べたように、トランプ大統領の精神状態の分析をめぐっては、今でも激しい論争が続いている。その論争の一端は、日本でも『ドナルド・トランプの危険な兆候――精神科医たちは敢えて告発する』(バンディー・リー著、村松太郎訳、岩波書店、2018)などの著作物で読むことができる。



ピエール瀧氏の「深層心理」を読み解く?

この論争は対岸の火事だろうか。精神科医であれその他の職であれ、人間の心理についての専門家は、メディアでの無責任な発言に対して慎重であるべきだ。しかし日本に目をやれば、同じような問題が存在していることに気づくだろう。

容疑段階であるにもかかわらず、「犯行動機」をプロファイリングしてみせる心理学者。政敵を批判する際に、病気のメタファーを用いる精神科医。専門知で把握できる範囲を逸脱して、男と女の違いなどをあまりに単純に「説明」してしまう心理学漫画。日本のメディアにも、問題のある発信は溢れている。

さらに一つ、具体例をあげてみよう。

2019年4月5日に放送された日本テレビのワイドショー「ミヤネ屋」では、薬物使用の疑いで逮捕され、その後釈放されたピエール瀧氏――2019年は「ウルトラの瀧」名義で活動――についての特集を放送していた。その際に同番組は、「臨床心理士」のコメントを紹介しながら、わずか2分間の映像を元に、ピエール瀧氏の「深層心理を読み解く」というコーナーを展開した。以下はその詳細である。

「カメラの前に姿をみせたおよそ2分間、瀧被告は何を思っていたのか。そして、その心理状態は。人間の深層心理を読み解くプロ、臨床心理士の矢幡洋氏は、保釈時の瀧被告について......」矢幡:場面緊張という言葉がありますけれど、特別な場面になると萎縮したり怖がったりしてしまうというようなことがあります。非常によく知られた現象ですけど、よく知られた現象が、このシーンのなかではまったく見られないんですね。「矢幡氏が指摘する複数の違和感とは――」矢幡:謝罪の場のはずが、出て来てまずぐるっと見回す。それからお辞儀をしてまた見回したり、喋る前に左右をみたりとか。つまり全然萎縮していない。上半身がフリーに動いている。さらに一瞬手を後ろに組むなどですね、ちょっと謝罪にはあまり似つかわしくない姿勢も。これほど余裕綽々とした人を私は保釈時、Vで見たことがない。もしかしたらこれ拘留されている二十何日間でいろんなシミュレーションを組み立てて、役者としてやっているのかなという印象も受けます。「また、矢幡氏は、謝罪の言葉にも違和感があるという」<このたびは、私ピエール瀧の、反社会的な行為により大変多くの皆様の方にご迷惑とご心配をおかけしてしまいました>矢幡:反社会的というような、報道ニュースで使うような言い方をしていて、まるで自分でやったことについてではなく、何かの事件についてコメントしているような言い方で終わっているところです。自分がやったことなんだというような、そういう生々しい感情がないのかなという気もいたしました。「そして、この場面も(お辞儀)」矢幡:約30秒間、ずっと頭を下げて、最後に関係者が促して、やっと頭をあげると。本当に反省の気持ちがそれだけ強かったというよりも、計算が働いたのかなと思います。



無自覚という罪とメディアの責任

テレビでは、ピエール瀧氏のみならず、メンバーである石野卓球氏にすら、謝罪や説明を求めるコメントも溢れていた。そうした論調の中で、このような「専門家」によるコメントは、「無反省」を叩くという空気を強化するものになるだろう。

薬物依存に関する問題においては特に、本人の「反省」を追及するモードが、治療と回復を妨げてしまうという側面がある。それでもあえて、公に専門知の権威を借りて、「無反省」を指弾することの意義はどのようなものなのだろうか。しかも、非常に薄い根拠をもって。

ここに興味深い文章がある。先の「ミヤネ屋」に出演していた矢幡氏が、かつて自身のブログに書いていたものだ。

「社会が心理学用語で事件解説を求めていることは確かなのだ。つまり需要がある。精神医学・心理学用語を使ってもっともらしい作文を1つ作れば、世間はそれで何かが『わかった』ような気がして、安心する。時代は、出来事を何でもかんでも『心理的な出来事』として位置付けることを求めている。コメンテーターの仕事は、社会を『わかったつもり』にさせて、出来事を整理済の棚の中に放り込むことにすぎない。それ以上の意義が無い事はわかっていながら、お金がないので仕事を選ぶことができない。テレビコメントの依頼が来たら、断らない」

これほどあからさまな告白も珍しい。あくまでお金のために、社会とメディアの求めに応じて、「わかったつもり」にさせるための「もっともらしい」コメントを行なっている――。そのことを隠さない点で、矢幡氏はある意味「誠実」なのかもしれない。

では、ここで何が問われてくるのか。最も重要なのは、メディアの役割だろう。

限られた情報の中で、本人の同意なく、精度の低いコメントである可能性をわかっていながら、精神医学や臨床心理学の専門家という権威を用いて、広く社会に発信する報道。それがいかなる正当性を持つものなのか、倫理的に許容されるものなのか。この点について、メディアは説明責任を持つ。

専門家のコメントを「時間や字数の埋め草」として捉えているのであれば、それは改められる必要がある。あまりに見慣れた光景であるために無視されがちだが、それは無益な慣習であるばかりでなく、社会に偏見を広げる有害な行為にすらなるのだから。

そうしたことに自覚的になるためにも、日本でもかような論争は知られるべきだろう。このようなルールを直ちに導入すべきだというわけではない。だが少なくとも、この論争が持つ意義や緊張感は、意識あるメディア関係者には共有されて欲しいと願っている。

引用文献:
・Kroll, J., & Pouncey, C. (2016). The Ethics of APA's Goldwater Rule. The Journal of American Academy of Psychiatry and the Law, 44(2), 226-235. Retrieved from http://jaapl.org/content/44/2/226
・Levine, M. A. (2017). Journalism Ethics and the Goldwater Rule in a "Post-Truth" Media World. The Journal of the American Academy of Psychiatry and the Law, 45(2), 241-248. Retrieved from http://jaapl.org/content/45/2/241
・Martin-Joy, J. (2017). Interpreting the Goldwater Rule. The Journal of the American Academy of Psychiatry and the Law, 45(2), 233-240. Retrieved from http://jaapl.org/content/45/2/233
・Post, J. M. (2002). Ethical Considerations in Psychiatric Profiling of Political Figures. Psychiatric Clinics of North America, 25, 635-646. https://doi.org/10.1016/S0193-953X(02)00011-4
・矢幡洋(2014) 心理コメンテーターのでたらめぶりを告白も含めて切る | 佐世保高1女子殺害の加害者は「女酒鬼薔薇」で詰み. Retrieved April 5, 2019, from http://crime-psychology.hateblo.jp/entry/2014/07/29/心理コメンテーターのでたらめぶりを告白も含

[筆者]
荻上チキ(おぎうえ・ちき)
評論家、ラジオパーソナリティ。メディア論を中心に、政治経済から文化社会現象まで幅広く論評する。著書に『いじめを生む教室』(2018、PHP)など。TBSラジオ「荻上チキ session-22」でギャラクシー賞受賞。

高 史明(たか・ふみあき)
社会心理学者。博士(心理学)。偏見と差別、自伝的記憶、マインドセット 、ジェンダーと労働の研究などを行ってきた。著書に『レイシズムを解剖する――在日コリアンへの偏見とインターネット』(2015、勁草書房)など。2016年、日本社会心理学会学会賞(出版賞)受賞。

荻上チキ(評論家)、高史明(社会心理学者)

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