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天安門事件とライカ、中国人の「民度」を高めようとした魯迅

ニューズウィーク日本版 2019年4月26日 11時15分

<ライカが「タンクマン」で炎上した。「中国の本質とは何か、それは日中関係にも深く影を落としているのか」という疑問を解くカギは、20世紀前半の日本留学生、魯迅と蒋介石の軌跡にあるかもしれない>

4月19日、北京発ロイター電として、「中国でドイツのカメラメーカー、ライカ・カメラが今週発表した、天安門事件を巡る動画が中国のソーシャルメディア(SNS)で『炎上』した」というニュースが飛び込んできた。

5分間の広告動画で、1989年6月、学生たちの民主化デモを中国人民解放軍が武力で弾圧した天安門事件の際、戦車の前に丸腰で立ちはだかる男性の姿をドラマ化したというものだ(最後にライカのロゴを表示して終わるが、その後ライカは動画への関与を否定する声明を出した)。事件当時、この男性は「タンクマン」と呼ばれ、世界中で民主化デモの象徴となり、とりわけ欧米諸国で有名になった。

この報道を見て、すぐに頭に浮かんだのは今春2月、日本で上演された演劇『CHIMERICA(チャイメリカ)』だ。「チャイメリカ」とは、「チャイナ」と「アメリカ」を合体させた造語で、アメリカのハーバード大学教授らが考案したものだという。新進気鋭の脚本家ルーシー・カークウッドの社会派作品で、イギリスで最も権威のある演劇作品に贈られるローレンス・オリビエ賞で5部門を受賞。世界で十数カ国上演された後、日本に上陸した(演出は栗山民也)。

筋立ては、「タンクマン」を撮影したアメリカ人カメラマンのジョー・スコフィールド(田中圭)が、23年ぶりに再会した中国人の旧友ヂァン・リン(満島真之介)から「タンクマン」にまつわる衝撃の事実を聞かされ、彼の軌跡を追い求めるというものである。

私はそのパンフレットに「天安門事件とはなんだったのか」と題して解説文を書いたので、観劇する機会があった。だが、天安門事件から30年が過ぎ、出演者たちも「私はまだ生まれていませんでした」とコメントする昔の事件である。若い観客の多くも知らないはずだから、正直、どんな反応があるのか不安を抱いていた。

しかし、劇場は満員御礼。最後は興奮の渦に包まれ、スタンディングオベーションと拍手の嵐のうちに幕を閉じた。田中圭のファンが多かったせいもあるだろう。満島真之介が熱演したヂァン・リンは、天安事件直後に私が取材した5人の当事者を彷彿させて、当時のことがありありと蘇ってきた。

100年前、「国家」を夢見た蒋介石と、「国民」を見つめた魯迅

天安門事件の翌年、私はアメリカとフランスへ行き、政治亡命した人たちを取材して『柴玲の見た夢』(講談社、1992年)を書いた。事件から10年後には、数人の亡命者の軌跡を追った『「天安門」十年の夢』(新潮社、1999年)も出版した。だが当時から、中国ではなぜ天安門事件のような悲劇がたびたび起きるのかと不思議でならなかった。



それが時間が経つにつれ、「中国の本質とは何なのか、それは日中関係にも深く影を落としているのではないか」という疑問に行き着いた。そして日中関係の真相を探ろうと、今春、『戦争前夜――魯迅、蒋介石の愛した日本』(新潮社)を出版した。作家の魯迅と軍人政治家の蒋介石の軌跡を軸に、「国家」と「国民」の関係を見つめ、現代の日中関係に横たわる違和感や嫌悪感の真相を突き止めようという試みである。

ときは20世紀前半。清国ではアジアでいち早く近代化した明治日本に学ぼうと、日本留学ブームが起こっていた。最盛期の1906年には約1万2000人の清国留学生が来日し、8割が東京にいたという。魯迅も蒋介石も日本留学生だった。

夏目漱石に憧れた魯迅は、近代化した文芸のかたちを「口語体による短編小説」だと見定めて、『狂人日記』を書いて有名になった。革命に身を投じた蒋介石は、日本で学んだ軍人精神を発揮し、軍人として次第に頭角を表して、ついには国家の最高権力者に上り詰めた。

その過程で、ふたりは「ペンと剣の闘い」に火花を散らし、真っ向から対峙する。「国家」を夢見る蒋介石と、「国民」を見つめる魯迅が、日本の侵略と国内権力争いの時代の中で、かつて愛した日本との関係に悩み、葛藤しつつも、日本人との友情を大切に思う姿を描いた人間ドラマである。

この人間ドラマの中で、1902年に来日した魯迅に大きな影響を与えたのが嘉納治五郎である。NHKで放送中の大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺」に登場し、スポーツを通して人間形成を広めようと情熱を傾ける嘉納は「柔道の父」として知られているが、1902年に清国人のための日本語学校「弘文学院」を創設した事実はあまり知られていない。魯迅は「弘文学院」の第一期生だった。

中国では一度も「公理」を重んじる教育が行われてこなかった

嘉納は1902年夏、2か月に及ぶ清国視察旅行へ出かけ、帰国後の10月に「弘文学院」の最初の卒業式で、次のような講話を行った。

「清国で最も急を要する教育は普通教育と実業教育であり......普通教育の目指すものは、国家の一員としての資格を備えた国民の養成である......中国の改革は急進的にではなく、平和的で斬新的に行うのが良い」そして「中国の国民性」について、嘉納は「中国の国体は、『支那人種(漢民族)』が『満州人種』の下に臣服することで成り立っており、この名分にはずれてはならぬ。『支那人種』の教育は『満州人種』に服従することを要点とする......『支那人種』の民族性は長い間にできあがってしまったもので、奴隷的な根性は改善の見込みがない!」と言い切った。



それでも革命を志す留学生の心情を思いやり、「教育とは『公理』を教え、民度の向上を最優先にすべきである」と説いた。その嘉納の言葉に影響を受けた魯迅は、中国人の「奴隷的根性」を治し、「民度」を高めることが大切だと考えて、「中国人の意識改革」を行おうと文芸を志したのである。

現代の中国では、経済発展したとはいえ、未だに国民の「民度」の低さが問題視されている。ということは、「中国の国民性」は100年前も経済発展した現代もあまり変わっていないということだろうか。

思えば有史以来、中国では一度も「公理」を重んじる教育が行われてこなかった。ここ100年を振り返っても、革命に次ぐ革命で国家が生み出されてきた経緯のなかで、「国家」は最優先に位置づけられ、愛国教育の美名の下に、政権に都合の悪い情報は遮断され、国家に盲従する国民を育てることばかりに腐心してきた。魯迅が大切だと考えた「国民」に視点を置き、国民が幸福になるような社会教育は行ってこなかったのである。

それが天安門事件のような国民の反発心と政府批判を爆発させてしまう結果に繋がったことは自明の理だろう。中国のことは100年見なければ分からない。一朝一夕では変わらない国なのである。だから100年前の人間ドラマを紐解けば、現在の中国の本質が分かり、日中関係を知ることにも役立つはずである。



『戦争前夜――魯迅、蒋介石の愛した日本』
 譚璐美 著
 新潮社


[筆者]
譚璐美(たん・ろみ)
作家。東京生まれ、慶應義塾大学卒業、ニューヨーク在住。日中近代史を主なテーマに、国際政治、経済、文化など幅広く執筆。『中国共産党を作った13人』、『日中百年の群像 革命いまだ成らず』(ともに新潮社)、『中国共産党 葬られた歴史』(文春新書)、『江青に妬まれた女――ファーストレディ王光美の人生』(NHK出版)、『帝都東京を中国革命で歩く』、『近代中国への旅』(ともに白水社)など著書多数。

譚璐美(たん・ろみ、作家)

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