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昭和から令和へ「象徴天皇」を理解するキーワード

ニューズウィーク日本版 2019年5月1日 7時30分

<天皇は神話や伝説から生じたものではなく、国民との「信頼」と「敬愛」から生まれるもの──昭和天皇の「人間宣言」から続いた象徴の模索と誤解>

1946(昭和21)年、終戦の翌年の元日、昭和天皇の「新日本建設ニ関スル詔書」が発表されました。その中に、有名な次の一節があります。

《 朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ》

(私とあなたたち国民とのつながりは初めから最後までずっとお互いの信頼と敬愛で結ばれたものであって単なる神話や伝説によって生じたものではありません。私とあなたたち国民とのつながりは天皇をこの世にあらわれた神だとし、そのうえ日本国民は優越した民族であって世界を支配すべき運命をもっているという架空の観念にもとづいているのではありません)

これをもって天皇の「人間宣言」とよばれていますが、そもそも自分が人間であることは天皇にとって自明のことであっていまさら宣言する必要はありません。このお言葉のテーマは天皇と国民との関係(紐帯)で、それが、天皇を神だとする架空の観念にもとづいているのではない、といったのです。

「国体」の2つの意味

古今東西、君主であることの根拠として神話や宗教を持ち出すのは珍しいことではありません。まだ現代のように科学が発達していない時代においては、神話や宗教はいまの科学にあたるものです。古代のロジックで自分の権威づけをしたのです。それになにも天皇だけが神の子孫ではありません。蘇我氏も大伴氏も藤原氏も古代の日本の有力者はみんな神の子孫だとされました。

「神話ト伝説トニ依」る「架空の観念」をひとことでいえば「国体」(くにがら)です。

「国体」には2つの意味があります。

昭和12(1937)年に文部省が発行した「国体の本義」にはこうあります。

《大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である》

皇祖とは天照大御神のこと。神勅とは天照大御神の孫の神様が地上に降りるときに、日本は自分の子孫が永久に治めるとおっしゃったお言葉です。つまりこれに従って天皇が日本を永遠に統治するということが私達の永久に変わらない国体だというのです。



これが第1の意味。なお、統治という言葉は、権力を持って国民を支配するという意味ではなく、もっと抽象的なものです。ポツダム宣言受諾かどうかで最後までこだわったのが、天皇という制度の存続でした。そして守りたかったのは昭和天皇という個人の権力者の地位ではありません。場合によっては、昭和天皇が退位してまだ小学生の皇太子が即位し、高松宮が摂政となるという案もありました。細かい説明は割愛しますが、天皇が存続すること自体が統治であり、この第1の意味での国体を護持することでした。

問題は、そこから先です。「国体の本義」は次のように続きます。

《而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない》

「精華」には「すぐれてうるわしいこと」、「生粋」「正味」という意味があります。ただ単に万世一系の天皇が永遠に治めるだけでは、「国体」を実現したとはいえません。国民がひとつの大きな家族として全員が天皇陛下のお気持ちを実行して、忠孝の美徳を発揮する、このことこそ国体(くにがら)の本質をなすことであり、すぐれて美しい実現なのです。これは国民が必ず行わなければならない義務です。疑問をもつのは非国民であり、日本人ではないのです。

新たなキーワードは「信頼」と「敬愛」

このような天皇と国民との関係をつくりあげて、道徳・政治・経済・産業などのあらゆることの根底とした体系、これが「国体」の第2の意味です。

この詔書で天皇が語られたのは、「国体の精華」つまり第2の体系としての国体の否定でした。

それに代わるキーワードは「信頼」と「敬愛」でした。

じつは、これは、けっして新しいことではありません。大正10年(1921)、昭和天皇の皇太子時代に欧州歴訪した際、『読売新聞』(8・21)の社説は、欧州諸国での皇太子の「簡易な御挙動」は将来の君主としての威厳を失わらせるものだと元老や一部の宮内官が憂慮しているというが、それは「時代精神を解しない彼等の頑冥を語るもので、今更問題にするにも及ばない」とし、こう述べます。

《元来皇室と国民を結ぶものは愛のほかはない。君は民を愛し民は君を愛する。その愛から敬が生まれる。畏れは決して愛から生まれない。皇室をして単に厳と畏との当体としたならば国民は決して愛を感じない。》



今上陛下は譲位のご希望を述べられた平成28(2016)年の放送で「日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました」と述べられました。「象徴」は新しい言葉です。いまでも「国家元首」とすべきだなどの意見がありますが、それは、既成の法学概念にあわせなければならないという後ろ向きの発想です。陛下はそうではなくて、「象徴」に意味を与えようと努力されました。

その出発点には、「信頼」と「敬愛」があるのではないでしょうか。

そしてそれは、けっして「天皇を敬愛するのが日本人の義務だ」と強制するものではありません。偉さではなく、謙虚さ。そのことによって国民が自然に信頼し、敬愛する。伝統や美徳を包括した日本というものの体現者として、日本というものを永遠に存続させていくことを担った者として自らの行動で示す。もちろん、過去と現在の日本を結ぶものとして、神への祈りは欠かしません。

この信頼と敬愛は、また、天皇から国民へのものでもあります。大日本帝国においては、天皇は国民の総親であり、家での親に対する孝の延長として天皇への忠がありました。「御民」といいながら、あくまでも民は天皇の赤子でした。このような、親と子という縦の関係ではなく、天皇は国民と共にあるものです。戦没者を神だと称揚するのではなく、慰霊し、感謝するのです。被災者には膝を折って同じ高さで視線をかわしながら手をとって労うのです。そして、人々と共に喜びをわかちあうのです。

新天皇は、かならずや、さらにこの「象徴」を確固たるものとすることでしょう。

[執筆者]
広岡裕児
1954年、川崎市生まれ。大阪外国語大学フランス語科卒。パリ第三大学(ソルボンヌ・ヌーベル)留学後、フランス在住。フリージャーナリストおよびシンクタンクの一員として、パリ郊外の自治体プロジェクトをはじめ、さまざまな業務・研究報告・通訳・翻訳に携わる。代表作に『EU騒乱―テロと右傾化の次に来るもの』(新潮選書)、『エコノミストには絶対分からないEU危機』(文藝春秋社)、『皇族』(中央公論新社)他。

広岡裕児(在仏ジャーナリスト)

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