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日本は翻訳大国でありトランスボーダー大国、『万葉集』は世界を代表する翻訳文学である

ニューズウィーク日本版 2024年3月13日 10時50分

翻訳、国境、ジェンダー、身分、言語......を超える『万葉集』。上野誠・國學院大學教授[特別専任]と
翻訳家のピーター・J・マクミラン氏に本誌編集委員の張競・明治大学教授が聞く。『アステイオン』99号特集より「境界を往還する万葉集」を3回にわけて転載。本編は上編 

張 本号の特集テーマの「境界を往還する」とは、片仮名で言うと「トランスボーダー」、つまり「国境を越えた」という意味ですが、今は「様々な境域を超えた」という意味の「超域性」として広く捉えられることが多いように思います。

今日は、上野誠先生とピーター・J・マクミラン先生にお越しいただきました。奈良時代後期に成立し、日本最古の歌集と言われる『万葉集』を「トランスボーダー」的側面から捉えると、どのようなことが見えてくるのか、存分にお話しいただきたいと思っております。

型を破るトランスボーダー大国日本

張 早速ですが、僕は、マクミラン先生の『英語で味わう万葉集(1)』を拝読して、なるほど、英語で読むと『万葉集』はこういうものなのかと、改めて驚きました。

後に中国語訳についても触れたいと思いますが、僕の持っている『万葉集』のイメージとは全く違いましたし、「これは現代詩か?」とも感じました。「こういう意味にも読み取れるね」という発見もありました。

同じテキストでも、異なる言語、異なる文化において多様な受け止め方がある。それが『万葉集』の魅力であり奥深さでもあると思います。

はじめに上野先生にお伺いします。文芸の起源を考えると、日本には『万葉集』より随分前から農作業や漁業をしながら口ずさむ歌があった。メロディーはなくともリズムがあるその歌を、詩と思う人は誰もいなかった。

では、いつ詩と思うようになったのかといえば、中国文学を知っている人がそれを聞き、「やまと言葉にも漢詩に劣らない美しい詩がある」と気づいて書き留め始めて定着したのではないか。というのも、『万葉集』の中の歌の詩形は完成度が高く、原始的ではありません。

既にあった多くの歌が洗練され、宮廷の和歌として定着したものが後に『万葉集』の中に取り入れられたのではないか、と思うのですが、いかがでしょうか。

上野 大筋でそうだと思います。世界中に言語と歌を持たない民族は存在しない。歌はさらに、言語の記号としての側面と音楽的側面の2つを持っていますね。

張 それが詩になるには、知識層の介入が必要だったと思うのです。万葉仮名を作る前の知識層の教養は漢詩・漢文ですよね。

上野 私は大学での4月の最初の授業で、「『文選(もんぜん)(2)』なくして『万葉集』なし」と黒板に書くことにしています。これで言いたいのは、「歌は日常の言語から切り離されたもの」という認識は中国の文学の影響を受けて発達した、ということです。

『万葉集』はよく日本的な歌集と言われますが、中国文学を学ばなければ『万葉集』の表現は出てこないと思っています。

いきなり今日の話の核心に踏み込んでしまいますが、日本は翻訳大国であると同時にトランスボーダー大国でもありますね。外から新しいものを持ってくることが非常に得意です。

中国という大きな文明圏の周辺国家の1つ、辺境の国で、大きな文明の持つ型が壊れていく場所なんです。その壊し方にこそ「日本文化」があると僕は思う。

典型的な例を1つ言うと、中国の古代文学では基本的に、女性が男性のもとに通って嫁入りする嫁入り婚で、七夕歌などもそうなっています。

ところが日本の場合は、男性が女性を訪ねる通い婚です。『万葉集』は、中国文学を読んだうえで、それをいかに日本での生活に合うかたちにするか、ということを考えて作られたもので、私に言わせれば、中国文学の崩れたものの1つと見ることもできる。まさに国際性を持つ翻訳文学です。

張 『万葉集』の編集は確かに『文選』に倣っているように見えます。その一方で、「防人歌(さきもりうた)」などを取り入れているのは、詩三百篇の『詩経』の集め方も念頭にあったとも思えます。

中国には、文人顔負けの民間の良い歌、優れた民謡を集めた「楽府(がふ)」というジャンルがありました。『万葉集』は、天皇から身分の低い人々の歌まである点が大変特殊であると言われますが、それは横を意識する目があったからこそ生まれた豊かさなのではないかと感じるのです。

上野 そのとおりだと思います。『文選』も『詩経』の影響を受けています。それは「民の声はその土地の民謡に表れる」という考え方で、日本でも、国司は「赴任したら必ずその土地の神様にお参りをしなさい。その土地の民謡をよく聞きなさい。そこから生活をよく見なさい」と言われました。

ヤマト王権は東へ東へと行きますね。いわばフロンティアの歌である「東歌(あずまうた)」を、『万葉集』巻十四に集めていることには、1つの意味があると思います。

マクミラン 上野先生は今、「『万葉集』は翻訳文学であり、中国文学の崩れたものだ」とおっしゃいました。

例えば大伴家持(おおとものやかもち)は池主(いけぬし)にラブ・ポエムを送ったり、雨晴海岸(あまはらしかいがん)の風景を詠んだりします。あるいは、言祝(ほ)ぎの歌、過労死の歌、自殺の歌、子供の貧困の歌などがありますが、それらも中国文化にそれぞれ型があるのでしょうか。

上野 型破りというのは型があるからこそできるものです。中国文学、文化には確固とした型がある。それをどういうふうに破っていくか。その破り方に日本の特徴があると思うのです。

マクミラン 私は、『万葉集』は日本の古典の中で最も伝承されていない歌集という印象を持っていて、原因はその読みにくさにあると思います。平安時代から千年ものあいだ真似され続けてきている『古今和歌集』や『源氏物語』と違って、真似されている印象もあまりありません。

しかし、今、外国人である私が訳してみると、「日本人の原点」であるどころか「日本人のアイデンティティーの源」のようにも感じます。『万葉集』が翻訳文学であるというだけでは、そこまでにはならないと思うのですが。

上野 それは、翻訳文学であることを踏まえて「自分たちのものにしている」から、「型を壊している」から、ということが1つあると思います。

もう1つは、『万葉集』の時代には、漢字・漢文の教養がある人たちのグループがいるのですが、同じ席におそらく文字を書けない人たちもいる。

知識層と文字を知らない人たちの両方を満足させるためには、「恋人と別れて寂しい」「子供がいとおしい」「過労死した人がかわいそう」というような普遍的なテーマの歌を詠む必要がある。

平安時代の文学に比べて『万葉集』の翻訳が世界文学になりやすいのは、文字を獲得していない人たちがオーディエンスにいたからではないでしょうか。

自己発見と新しいものを生み出す動力

上野 ご出身のアイルランドの文化を象徴するもの、代表させたい文化というと何ですか。

マクミラン 今世界的に知られているのは音楽かな。文学も盛んです。小さな国ですが、イェイツ、ヒーニーなどノーベル文学賞を受賞した詩人もいます。

かつて古代アイルランドには王様がいて、その次に位の高いのが詩人でした。呪術的な力を持つシャーマンでもあって、詩人に呪われると不幸になり、言祝いでもらえれば幸せになる、という日本の言霊(ことだま)信仰のようなものがあります。『万葉集』に通ずるところがあるように思います。

上野 言葉を「道具」と考えるか、「それ自身に生命が宿るもの」と考えるか。後者の考え方のほうが古いと思います。

中国文化、中国文明の周辺にいる弱い立場の者は、中国に圧倒されながらも、「古いもの、素朴なものが良い」というふうに主張します。古いものを保存し、それを自分たちのアイデンティティーにする姿勢です。

『万葉集』についても、8世紀の人たちは漢詩・漢文が書けるエリートではあるけれど、「これがなくなったら俺たちは日本人じゃなくなるよね」みたいな感覚があったのではないでしょうか。

アイルランドで、言葉を大切にしたり、「ケルトの文化も残っている」と主張して古いものを自分たちのアイデンティティーにしたりする感覚と、近いところがありませんか。

マクミラン ありますね。

張 日本文学との相性も良いですよね。パウンドが翻訳した謡曲は、日本語がよくわからないから自由奔放な訳し方になっているけれど、英語で読むとそこがかえって面白い。イェイツが感動してそれを取り入れましたね。

マクミラン イェイツばかりか、ジョイスも影響を受けています。「杜若(かきつばた)」という謡(うたい)のパウンド訳に見られる縁語の考え方がジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の基になっていると言われるほど、アイルランド文学には深く影響しています。

張 それは、トランスボーダーが動力になって新しいものを生み出している、1つの例に思えます。

時代が少し後になりますが、『古今集』に、壬生忠岑(みぶのただみね)の「有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし」という歌がありますね。授業で学生に読ませると、今の子たちにはなぜ暁が悲しいのかわからないから、「通い婚で、暁には家を出ないといけないから悲しいんだ」と説明します。

当時の人々は、漢詩を知ったからこそ「暁の悲しさを感じることに価値がある」と発見し、この歌を残したと思うのです。

異質のものとの出会いが、自分の文化にもともとありながらそれまで何とも感じていなかった、そういうものの持つ光に気づくきっかけになる、ということです。上野先生がおっしゃったように、強いものに圧倒され、古いもの、素朴なものを保存するようになるばかりでなく、自己発見のきっかけになるというのも、トランスボーダーの持つ別の力ですね。

マクミラン 私は今、『万葉集』の英訳を世界に発信していくため、さまざまな活動に取り組んでいます。例えば「万葉歌めぐりの旅プロジェクト」では、「万葉のふるさと」のひとつである富山県高岡市が解説板を作っています(3)。

現在、日本全国にある約2300の歌碑のうち、妥当性のあるものは1500ぐらい。しかも、崩し字で書かれていて、日本人でもたいがい読めないし、読めても意味が伝わらない。

そのプロジェクトで作る解説板には、原文と、現代の日本語での読み方と解説、さらには、英訳と外国人目線で書かれた解説を載せます。日本人にも外国人にも、富山なら富山の観光をして、お酒を飲み、おいしいものを食べ、そして『万葉集』文学の旅の情緒を堪能してもらおうというわけです。

また先日、ポーランド、ルーマニア、ブルガリア、ジョージアで、JICAの文化講師として『万葉集』の英訳についての講義をしました。

その折にこの万葉歌めぐりの旅の話をしたら、ジョージアの皆さんが感激してくださって、それが「自分たちの文化や文学をどのようにすれば観光資源として生かせるか」と考えるきっかけになったようなのです。『万葉集』や日本文化にはそういう力がある。まさにトランスボーダーだと思います。

張 異質なものとの出会いにより、みずからを発見するときの合わせ鏡の役割ですね。

※第2回:万葉集は世界レベルの文学作品であり、呪術的な世界の記録として極めて優れている に続く

[注]
(1)『英語で味わう万葉集』 ピーター・J・マクミラン著、文春新書、2019年
(2)南朝梁の昭明太子(501~531)の撰による詩文集。現存する「集部」のなかの最古の「集」
(3)万葉歌碑魅力発信プロジェクト

上野誠(Makoto Ueno)
國學院大學文学部日本文学科教授[特別専任]・奈良大学名誉教授。1960年生まれ。國學院大學大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。博士(文学)。専門は万葉集、万葉文化論。著書に『折口信夫 魂の古代学』(角川ソフィア文庫)、『万葉文化論』(ミネルヴァ書房)、『日本人にとって聖なるものとは何か』(中公新書)、『万葉集から古代を読みとく』(ちくま新書)など多数。

ピーター・J・マクミラン(Peter MacMillan)
翻訳家・版画家・詩人。アイルランド生まれ。日本での著書に『日本の古典を英語で読む』『英語で味わう万葉集』『松尾芭蕉を旅する』など多数。相模女子大学客員教授・東京大学非常勤講師をつとめるほか、朝日新聞で「星の林に」、京都新聞で「古典を楽しむ」を連載中。NHK WORLD「Magical Japanese」、KBS京都「さらピン!キョウト」に出演している。

張競(Kyo Cho)
1953年上海生まれ。華東師範大学卒業、同大学助手を経て1985年に来日。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。著書に『海を越える日本文学』(筑摩書房)、『異文化理解の落とし穴』(岩波書店)、『詩文往還』(日本経済新聞出版)など。

『アステイオン』99号
 特集:境界を往還する芸術家たち
 公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会[編]
 CCCメディアハウス[刊]

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