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広島で原爆に自宅吹き飛ばされ、親族頼って長崎でまた被爆…姉弟の「二重被爆」体験知る企画展

読売新聞 / 2024年10月31日 16時9分

相川国義さん(平和祈念館提供)

「焼けタダれた負傷者であふれ」 

 広島と長崎で原爆に遭った福井絹代さん(94)(青森市)と弟の相川国義さん(2017年に84歳で死去)の被爆体験を伝える企画展「幼い姉弟が見た広島・長崎」が、長崎市内で開かれている。「二重被爆」という壮絶な体験をした姉の証言映像と、弟が描いた絵や手記を通して、原爆の悲惨さを訴えている。31日まで。(勢島康士朗)

 広島の自宅で見た原爆の閃光せんこう、原子野に残った浦上天主堂(長崎市)の周囲に折り重なっている死体――。

 会場の国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館には相川さんの「原爆の絵」のパネル13点が並ぶ。〈長崎方面より進入して来た列車を見たとたん…うわっ…と叫んでしまった。広島で見た焼けタダれた負傷者で列車はあふれんばかりの人、人、人〉。絵にはそうした手記が添えられている。福井さんの約30分の証言映像も視聴できる。

 長崎市出身の2人は父の仕事で広島市に転居。1945年8月6日、爆心地から1・8キロの自宅で被爆した。父子家庭で父は召集されていたため、当時14歳の福井さんは2歳下の相川さんと2人で暮らしていた。

 自宅は爆風で吹き飛ばされ、福井さんはがれきの下敷きになったが、弟に助け出されて一命を取り留めた。遺体の間で野宿して夜を明かした。子ども2人で生き延びられる状況ではなく、親族のいる長崎を目指すことにした。

 9日午後、道ノ尾駅近くで列車が急停車。列車を降りて長崎駅方面に進み、入市被爆した。2人は親族の家があった北側の外海地区まで計約40キロを歩き、再び惨禍を目にした。〈道路上には黒コゲ死体が折重なっている。生存者が、いれば心強いと、思ったのに、姉と二人だとわかると、恐怖で全身ガタガタと、震えがとまらない…〉。相川さんは当時のことを手記でそうつづっている。

 福井さんも「亡くなった人の上を歩かなければ進めず、『ごめんなさい』『ごめんなさい』と言いながら歩いた。しゃがみこんで動かない弟を慰めた」と振り返る。

 父の復員後、3人で東京に移った。福井さんは結婚して青森県で暮らしていたが、偏見を恐れて周囲に被爆者であることを隠した。家族にもあまり体験を明かさなかった。一方、長崎に戻った相川さんは、被爆前後に見た広島、長崎での光景を絵や文章に記した。書き残した原稿用紙は約100枚に上り、一部を長崎原爆資料館などに寄贈した。

 今年のノーベル平和賞に被爆者団体の全国組織「日本原水爆被害者団体協議会(被団協)」が選ばれ、被爆地への関心が高まる中、企画展は今月20日に始まった。祈念館によると、外国人の来場者が増えており、手記の英訳を熱心に読む姿が目立つという。

 福井さんは初日に会場でのトークイベントに参加。「今の若い人たちには想像もつかない経験だと思う。企画展を見た人が、その後にどんな思いを持つようになるのかが知りたい」と語った。

被爆地「両市」は22人

 「二重被爆者」は広島と長崎の双方で被爆した人で、語り部などの平和活動に取り組み、米ニューヨークの国連本部でも核廃絶を訴えた長崎市の山口つとむさん(2010年に93歳で死去)らが知られている。

 厚生労働省は実数を把握していないが、長崎市によると、同市在住の二重被爆者は10人。広島と長崎の各国立原爆死没者追悼平和祈念館に氏名と遺影を登録している死没者のうち、被爆地が「両市」とあるのは現在22人という。

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