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愛する娘に津波で失った母の面影。〝ひとりぼっち〟から新たな家族、見つかった「自分の居場所」 能登の被災者に伝えたい「大丈夫」

47NEWS / 2024年5月10日 10時30分

宮城県石巻市の自宅跡を訪れた嶺岸美紗子さん。奥は母校で震災遺構の門脇小学校=3月1日

 あの日から6年がたった夕暮れ時、娘の顔をそっとのぞき込んだ。「お母さんだ」。生後数カ月の娘は、まるで生まれ変わりのように亡き母にそっくりだった。宮城県石巻市に住む嶺岸美紗子さん(35)は2011年の東日本大震災で家族全員を津波に奪われた。

 突然ひとりぼっちになった寂しさを埋めるよう、13年間必死に生きてきた。守りたい家族もできた。今年の元日、能登半島を襲った地震にあの日の光景が重なった。今、能登の被災者に伝えたい言葉がある。(共同通信=山田純平)

 ▽4人家族
 石巻市門脇地区に30年続く老舗の文房具店があった。近くには小学校があり、いつも多くの子供たちでにぎわっていた。嶺岸美紗子さんはそんな店の一人娘として生まれた。店を切り盛りしていたのは祖母の榊美代子さん。父健之さんと母ひとみさん、そして美紗子さんの4人で暮らしていた。

 2011年3月3日は22歳の誕生日。家族に祝ってもらった記憶があるが、詳しいことはあまり覚えていない。その8日後、当たり前だった日々が奪われる絶望が待っていた。

 11日午後2時46分。自宅で出かける準備をしていると立っていられないほどの揺れを感じた。揺れが収まったが、家の中は皿が割れ、店の文房具が散乱していたが、家族全員の無事を確認した。避難所は隣にある母校の門脇小。近隣住民らは避難を始めており、家族に避難を促した。

 一足先に外に出ていた祖母がつぶやいた。「津波が来た」。玄関の小窓が割れ、茶色い水が勢いよく流れ込んできた。とっさに目をつぶった。


津波の犠牲になった家族の写真を手にする嶺岸美紗子さん。左から父榊健之さん、幼少時の美紗子さん、祖母美代子さん、母ひとみさん=3月1日、宮城県石巻市

 ▽灰色の海
 「ビービービー」。どこかで鳴っている子ども用防犯ブザーの音で意識を取り戻した。どれほどの時間、気を失っていたのだろう。首まで水につかっていた。ふと見上げると、ガレキの隙間から薄暗い空が見えた。

 必死にはい上がると、辺り一面は濁った灰色の海水につかっていた。自宅があった位置から推測すると、流れ着いたのは門脇小のプールだった。その母校は火事で赤く燃えていた。「助けてください!」。学校の方向から誰かの声が聞こえた。助けられないのは分かっていた。それでもその声は今も脳裏から離れない。

 自分は助かった。両親も大丈夫だろうと思いながら、避難した高台から空を見上げた。満天の星と火の粉が飛んでいた。こんなにきれいな星空を見たのは初めてだった。避難した高校に家族はいなかった。嫌な胸騒ぎがした。

 翌朝からは親戚宅で過ごした。両親と祖母の3人の行方は分からないまま。遺体安置所に泣きながら通い、約1カ月後、自分が流れ着いた同じプールに積み上がったがれきの中から祖母が見つかった。近くにいたんだなと感じた。


津波で犠牲になった家族の写真を手に、思い出を語る嶺岸美紗子さん=3月1日、宮城県石巻市

 ▽母のセーター
 父と母の行方が分からないまま半年が過ぎ、石巻市で1人暮らしを始めた。「本当に一人になっちゃった」と初めて実感した。料理上手だった母に雑煮の作り方を教わればよかったと今でも後悔している。

 2013年11月、身元不明の遺体の似顔絵や服装を掲載した新聞記事に見覚えのあるセーターがあった。母がいつも着ていたものだ。もしかしたら見つけてほしくて着ていたのだろうかとも思った。震災から2年8カ月後、母の遺骨が見つかった。セーターは母の生きた証として今も大切に取ってある。

 ▽生かされた命
 当たり前の日常は突然奪われる。二度と私のような人を生まないために―。そんな思いで2011年の夏ごろから、自身の経験を語り始めた。人前は苦手だが、涙を流しながら親身になって聞いてくれる人もいた。取材を受けることも増え、そのときは必ずペンダントを付ける。あの日、津波にのみ込まれた時に付けていたものだ。自分にとってはお守りのような感覚だ。


嶺岸美紗子さんのペンダント=3月1日、宮城県石巻市

 震災が大切な家族を奪い、全てを変えてしまったが、内気だった自分を人として成長させてくれたのも震災だった。あの時死んでいたかもしれない。生かしてもらった命を人のために使いたいと思うようになった。

 両親には「楽しく暮らしてるよ。心配しないで」と伝えたい。震災から13年がたった今でも、父の行方は分からない。どこにいるの。思いを巡らせ、見つけてあげたいと切に願う。

 ▽子どもの誕生
 幼稚園からの幼なじみだった男性と再会し2017年に結婚した。家族がほしいと願っていた。「自分の居場所ができた」と感じた。同じ年の6月、待望の長女を出産した。ある夕暮れ時、あやしていた娘の顔に母の面影が重なった。「そばにいるよ」という母からのメッセージのようにも思えた。翌年には息子を授かった。

 子育てに追われ、いつしか両親が夢に出てくることもなくなった。毎日のように聞いていた母の声も思い出せなくなった。「もう私たちのことは考えなくていいよ」。そう言われている気がした。でも、両親に孫の顔を見せてあげたかった。子どもには「じいじ、ばあばに会わせてあげられなくてごめんね」と思う。


自宅で家族との思い出を語る嶺岸美紗子さん=3月1日、宮城県石巻市

 ▽重なる姿
 元日の能登半島地震。被災地の光景にあの日がフラッシュバックした。ニュースで家族全員を亡くした男性を見た。「あの時の私」に重なった。今すぐにでも男性の手を握り「大丈夫。生きていればいいことがある」と伝えたい。13年前、全てを失い「心から笑える日なんて来ない」と諦めた。でもここ数年で心の底から笑えるようになったから。

 被災者に向けた「頑張れ」という言葉が嫌いだ。もう十分頑張っているのに、どれだけ頑張ればいいのと思う。今は絶望しかないかもしれない。希望の光が見えるまで、時間はかかるが「生きることを諦めないで」。そう伝えたい。

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