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幻の原爆投下「第1目標」地点にいた祖父。「もし死んでいたら、私もいなかったかも…」 被爆地でない場所で、36歳女性が語り部になった理由

47NEWS / 2024年8月14日 11時30分

福岡市内の中学校で講演する和田由佳里さん=6月20日

 福岡県苅田町の和田由佳里(わだ・ゆかり)さん(36)は6月、福岡市内の中学校で生徒たちを前に、原爆体験者の経験談を語り始めた。「腕がちぎれ、足の肉がめくれて骨がむき出しに…」。蒸した空気で満ちた体育館が静まりかえる。
 和田さんは体験を語り継ぐ「伝承者」だ。活動を始めたきっかけは、祖父が戦前、福岡・小倉にあった兵器工場で働いていたと知ったこと。実は小倉は、1945年8月9日に長崎に投下された原爆の第1目標になっていた。「もしかしたら祖父も死んでいたかもしれない」―。被爆地でない場所で、原爆を語り継ごうとする人たちの姿を見つめる。(共同通信=石原聡美)

 ▽もしあの日

 和田さんの祖父は終戦まで、今の北九州市にある小倉陸軍造兵廠で働いていた。そこは、広さ約58万3千平方メートルを有する西日本最大級の兵器工場。学徒動員を含め、多い時には約4万人が働き、小倉は軍都として栄えた。


 米軍は、8月9日の第1目標を小倉に定めていた。8月9日午前9時44分、プルトニウムを燃料にした「ファットマン」と呼ばれる原子爆弾を載せた爆撃機B29が小倉に到着した。
 しかし、小倉上空は煙による雲ともやが立ちこめ、視界不良。前日、隣接する八幡市(現北九州市)で大空襲があったからだとされる。米軍は小倉上空で50分間を費やした後、第2目標の長崎に向かった。
 午前11時2分、長崎に投下された原爆が炸裂した。1945年末までの死者は推定約7万人に上る。


「北九州市平和のまちミュージアム」の展示=7月25日

 和田さんは2010年に祖父が亡くなった後、祖父が小倉陸軍造兵廠で働いていたと知った。「もしあの日、小倉の空が晴れていたら、祖父は原爆で死んでいたかもしれない。そうすると、私もいなかったかもしれない」
 戦争も原爆も経験していない。それでも「平和を考えるきっかけを作る時間になれば」と、語り継ぐ活動を始めた。

 ▽「伝承者」デビュー

 今年6月、福岡市立中学校の体育館。湿度が高く、蒸した空気が満ちていた。体育座りをして待つ中学2年の生徒は約140人。中学校では毎年、1945年6月19日にあった福岡大空襲の日付にあわせ、戦争体験や被爆体験を聞く時間が設けられている。
 「片腕のちぎれた女の人、両足の肉がめくれて骨がむき出しになっている男の人…」。和田さんがやや緊張した面持ちで語る原爆投下後の悲惨な景色に、生徒たちは息をのみ、体育館はしんと静まりかえった。


福岡市内の中学校で講演する和田さん=6月20日

 和田さんが語ったのは、13歳の時に広島で被爆し両親を亡くした安部民子(あべ・たみこ)さん(2022年に90歳で死去)の体験だ。和田さんにとっては初めての舞台。「誰か」の経験を語り継ぐ「伝承者」としてデビューした。

 ▽戦争のない世界を


福岡市内の中学校で講演する和田さん=6月20日

 安部さんは原爆が投下された時、広島市から離れた町にいた。広島市内にいた両親に会うため市内に入り、目を覆いたくなるような光景に衝撃を受けたという。
 見つけた母は「首から下は黒焦げ、顔だけは生焼け」で、気を失った。母の遺体を骨になるまで焼きながら、泣きじゃくった。父は生き残ったが、全身にやけどを負っていた。体は次第に腐っていき、頭に開いた野球ボールほどの穴や両手足の無数の穴の中では、ウジ虫が動き回っていた。
 安部さんは後世に次のようなメッセージを残している。「原爆の恐ろしさ、悲惨さを一人でも多くの人に伝えてください。戦争がどれだけむごいものか話してほしいのです。やがて大人になったら、どうか戦争のない世界をつくってください」

 ▽「一人っ子」鍵に

 和田さんが安部さんの体験を語り継ごうと思った理由の一つは「一人っ子」。昨年夏、一人っ子の安部さんの証言を読んだ際、同じ一人っ子の和田さんは感情移入し涙があふれ止まらなかった。語り継ぐと決め、半年ほどかけて原稿を作り、練習を続けてきた。
 証言を聞いた松原望さん(14)は「残酷だと思った。自分でも被爆について調べて伝えていきたい」と話した。

 ▽福岡で「難しい」


北九州市内の公園にある原爆犠牲者慰霊平和祈念碑=7月25日

 「被爆地には、立派な資料館があり、語り継ぐ制度もある。でも私たちはこの部屋だけです」
 福岡市内にある、民間の福祉団体が拠点を置く総合福祉センター「ふくふくプラザ」の一室で、福岡市原爆被害者の会証言グループのリーダー、国川利子さん(69)はそう話す。「難しいですよ、福岡で語り継ぐって…」
 被爆者は全国各地に住む。被爆後、結婚や就職、さまざまな事情で転居した。福岡県内の被爆者数は5117人(2021年3月末時点)。広島、長崎に次ぐ3番目の規模数だ。その後、東京都4402人、大阪府4288人が続く。
 かつては福岡県内にいる被爆者も多かったが、高齢化に伴い減少している。被爆者として語れるのは広島で体験した3人と長崎の6人の計9人しかいない。福岡市原爆被害者の会は危機感を覚え、語り継ぐ方法を模索し考える会合を2022年秋に開いた。
 「一人では難しくても、みんなで語る朗読なら、平和を語り継ぐ活動に踏み出しやすいのではないか」。国川さんたちはそう考え、被爆体験や原爆に関する物語などを複数人で朗読するグループ「おり鶴の声」を結成。2023年1月ごろから練習を始めた。
 2023年4月に福岡市内で初の朗読を披露し、今後も県内の公民館などで朗読を披露する予定だ。グループには12人が所属し、そのうち被爆者は1人だけだという。


福岡市内の公民館で行われた「おり鶴の声」の朗読=7月20日

 ▽何かしないと

 「何か、せないかん(しなくては)」。核廃絶を訴え、被爆体験を後世に伝え残す。被爆者の思いを語り継ぐため、被爆者以外のメンバーが語り継ぐ取り組みも始めた。自分自身の被爆体験を語る「証言者」と、誰かの体験を語り継ぐメンバーを「伝承者」と呼び分けている。活動中の伝承者は現在4人。うち2人は2世だという。
 「おり鶴の声」の朗読には、最初から1人で体験を語るのはハードルが高くても、複数人での朗読を経験後、1人で語る「伝承者」になれたらとの考えもある。和田さんはそのようにして伝承者になった1人だ。
 広島市は2012年度から被爆者本人に代わり体験を語り継ぐ「被爆体験伝承者」の養成制度を始めた。長崎市も被爆者の家族や交流がある人らを対象に「家族・交流証言者」を募集し、体験を伝える取り組みを進めている。
 福岡市原爆被害者の会は5月、広島市から被爆体験伝承者を呼び、実際に「証言」を語ってもらった。「本当にその人になったようだった」と国川さんはその驚きを振り返る。

 ▽「おり鶴さん」


福岡市内の中学校で講演する和田さん=6月20日

 「おり鶴の声」の由来は、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の月刊紙で連載されていた反核への思いを描く4こま漫画「おり鶴さん」にある。
 漫画には反核・反戦活動に取り組むたくさんの被爆者たちが「おり鶴さん」と呼ばれて登場する。長崎で被爆した作者の故西山進さんは著書で「私であり、あなた、被爆者みんな、そして被爆者の志を継ぐみんなが『おり鶴さん』です」とつづっている。
 国川さんは被爆2世で、元小学校教員。教員として平和教育に携わり、長崎で被爆した母の話も聞いた。「被爆者が目に見えて減っていく。今いる人間が伝えていかなくては」と考えた。「私たち一人一人が『おり鶴さん』。発する声は『おり鶴の声』でしょう」と説明する。
 現代と過去をつなぐ糸を見つけ、たぐり寄せながら戦争を伝えている人たちがいる。和田さんは、「祖父」と「原爆に遭った一人っ子」という、自分と戦争をつなぐ2本の糸をより合わせ、安部さんの体験を語り継ぐに至った。国川さんも糸を紡ぎ続ける一人だ。福岡の地でも、新たな「語り継ぐ」活動が始まりつつある。

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