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60年前、広島・長崎の被爆者は世界で惨状を語った トルーマン元米大統領やオッペンハイマー博士とも面会

47NEWS / 2024年8月24日 10時30分

「広島・長崎世界平和巡礼」について語る阿部静子さん=6月、広島市

 広島と長崎に原爆が投下されてから約20年後の1964年4~7月、被爆者25人がアメリカや当時のソ連、東西ドイツなど8カ国150都市を巡り、被爆の実態を証言した。
 それから60年。今年、原爆の日に広島市と長崎市でそれぞれ開かれた平和式典では、「武力による国際問題解決」という考えの高まりへの懸念や、「核戦力の増強は加速し、危機的な事態に直面している」とのメッセージが地元から発せられた。核はいまも現実的な脅威であり続けている。
 1964年の「広島・長崎世界平和巡礼」では、原爆投下を命じたトルーマン元米大統領や、「原爆の父」故ロバート・オッペンハイマー博士とも面会した。その際、何があったのか、一行は何を思ったのか。参加者の話や記録から、当時の様子を振り返りたい。(共同通信=下道佳織)

▽平和のかがり火を


 NPO法人「ワールド・フレンドシップ・センター」(広島市)によると、世界平和巡礼はアメリカ人平和活動家の故バーバラ・レイノルズ氏らが計画した。被爆者25人のほかに、通訳や記者など総勢約40人が参加した。1964年4月21日にハワイに入り、その後アメリカ本土へ。班で行動するなどし、カナダ、英国、フランス、東西ドイツ、ベルギー、旧ソ連と、8カ国150都市を訪問した。
 レイノルズ氏は62年、被爆した女性と原爆で親を失った青年を連れ世界各地を回った。その際、「ヒロシマ」「ナガサキ」は知られているものの、原爆の惨状が全く知られていないことを痛感した。東西冷戦の真っ只中、63年11月21日に作成された平和巡礼の趣意書には、目的についてこう書いてある。

 「私ども人間の想像力には限りがあり、原爆の一発、二発で事のすまない未来戦の人類共滅的惨禍をいかなる人も十分に想像することはできません。まして世界に名の知られた広島・長崎についてさえ、その被爆の実相は、やはり、その体験や現場証人のなまな話を聞かなければ現実が遠すぎて実感がわかないのです。これが遠隔操縦によって全線に核兵器が発射され押しボタンを押す人が被害の現場を見る必要のない現代戦の特徴でもあります」
 「人類のこの全面的破局を救う道は、広島・長崎、そして日本全国に燃やされている平和のかがり火を、世界中の大衆に〝分け火〟して全世界の大衆に平和のかがり火を燃えあがらせること以外にありません」(原文ママ)

 参加者を募集し、選考を通過した人には「サンカパス」と書かれた電報が64年1月に届いた。被爆者は広島から19人、長崎から6人の参加が決まった。

▽涙ぼうだたる状態

 一行はアメリカ滞在中、原爆投下を命じたトルーマン元大統領と面会した。たった数分間、被爆者の代表と言葉を交わした。その場にいたメンバーは、「被爆者を前に堂々としていた」と振り返る。原爆投下への謝罪は一切なかった。


来日し記者会見する米国の物理学者ロバート・オッペンハイマー博士(右)=1960年、東京都港区

 原爆開発計画「マンハッタン計画」を率いた科学者の故オッペンハイマー氏と面会した被爆者もいた。オッペンハイマー氏はこれより前の1960年に来日したことがあったが、被爆地は訪れていなかった。巡礼では64年6月、広島の被爆者で理論物理学者の故庄野直美さんらが面会。そこに通訳として立ち会った故タイヒラー曜子さんが当時の様子を話した2015年の映像が、ワールド・フレンドシップ・センターに保管されている。

 「(面会場所となった)研究所の部屋に入った段階でオッペンハイマー氏は涙ぼうだたる状態。『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と謝るばかり」

 広島大平和センターの川野徳幸センター長は「謝罪した記録があるのは驚きだ。開発責任者だった同氏の謝罪は、被爆者にとって救いになるだろう。ただ当時の彼にとって、誰への、何に対する謝罪だったかを考える必要がある」と述べた。ワールド・フレンドシップ・センターの立花志瑞雄理事長は「被爆者らの生きた証しとして、映像や文書を保存していきたい」としている。

▽優しさに触れ、語る決意


「広島・長崎世界平和巡礼」について語る阿部静子さん=6月、広島市

 平和巡礼の参加者だった阿部静子さん(97)はいま、広島市の高齢者施設で暮らす。広島に原爆が投下された1945年8月6日、18歳だった阿部さんは爆心地から約1・5キロの屋外で被爆した。体の右側から熱線を浴び、顔は焼け、右腕の皮膚が爪までむけて垂れ下がった。逃げた先の軍需工場で横になっていると、被爆から3日目に父の呼ぶ声が聞こえた。「ここよ」と答えたが、顔が腫れ、風貌が変わった姿に「あんたが静子か?」と何度も確認された。
 やけどはケロイドとなり、皮膚が盛り上がって指が変形し、口元はゆがんだ。右腕は約10センチ短くなった。皮膚の移植など、受けた手術は18回。顔は赤く、近所の心ない子どもたちに「赤鬼」とはやし立てられた。「子どもの授業参観では、美しいお母さんたちの間で肩身が狭くて…」。しゅうとめには離婚を迫られ、つらい日々を過ごした。平和巡礼が提唱された63年に、広島で被爆者のための「広島憩いの家」を管理・運営していた文筆家の故田辺耕一郎氏に参加を勧められ、一員に選ばれた。「私でいいんだろうか」と迷っていたが、「他の参加者は自動車一台ほどの働きをされるのなら、私は一本のネジでもいいから、精いっぱいやらせてもらおう」と覚悟を決めた。夫や子どもたちは温かく送り出してくれた。
 アメリカでは原爆被害が知られていなかったが、学校や教会での証言で自身の被爆体験や治療について話した。現地の人は「まだけが人がいるのか」と驚いていた。阿部さんはその時の様子を振り返って「自分が受けた被害は忘れません。恨んでいないと言ったら嘘になりますが、原爆の被害を今後誰も受けないようにとの思いで話したら、通じるような気がしました」と語る。


1964年の「広島・長崎世界平和巡礼」で、米国でホームステイした阿部静子さん(左)(本人提供)

 ホームステイ先の家族は心から迎えてくれた。アメリカ人の温かい心は、恨む気持ちを溶かした。共に平和をとの思いが芽生え、「原爆の生き証人」として伝えようと決意した。
 ホストファミリーとは帰国後も交流が続き、日本で再会を果たした。阿部さんは3人の子どもを育てた後、2012年まで証言活動をした。「うつむきながら、傷を隠そうとして暮らしていた私に、平和巡礼は自信を付けてくれました。証言活動では修学旅行生にも体験を話しました。私の話を真面目に聞いてくれ、生きていてよかったという気持ちが湧いてきました」

 平和巡礼から60年となった今年、高齢者施設から講演会場にかけつけ、約1時間にわたって当時の思いを語った。施設でも多くの記者と面会を重ねた。筆者の時は連日面会があったにも関わらず温かく迎え入れ、一つ一つ丁寧に、思いを込めて話された。「核兵器は決して使われてはいけない。廃絶が、広島で被爆した私の切なる願い」。そしてこうも語った。「優しい心こそが、平和への原点です」

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