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「とにかく静かにしてほしい」追い詰められた80歳の夫は85歳妻の首に手をかけた

47NEWS / 2024年9月2日 10時0分

東京地裁の刑事裁判法廷=7月、東京都

 80歳の夫が、介護していた85歳の妻を殺害した。妻を手にかけた後、自身の命も絶とうと考えたが果たせなかった。家事を一手に引き受け、献身的に尽くす日々が続いた末に起こした事件だった。
 この夫にどんな判決を下すべきだろうか。その判断はプロの裁判官だけがするわけではない。無作為に市民から選ばれた裁判員にも委ねられる。いまこの記事を読んでいるあなただって、いつその立場に立たされてもおかしくない。
 実刑にするか執行猶予を付けるかの判断は、プロの裁判官でも難しい。老老介護の果ての殺人を市民はどう裁いたのか。事件を振り返りながら、悩み抜いて結論を出した裁判員の思いをリポートする。(共同通信=助川尭史、木下リラ)

※記者が音声でも解説しています。「共同通信Podcast」でお聴きください。

▽老老介護の果てに…殺人事件


夫婦が住んでいた都内の集合住宅

 事件は2023年10月、東京都世田谷区の区営住宅で起きた。夫は妻の首を両手や電気コードで締めて殺害したとして、殺人罪で逮捕、起訴された。
 今年6月、東京地裁の初公判に被告として出廷した夫は、大きめのグレーのジャケットに身を包み、静かに視線を落としていた。証言台へ向かう足取りはしっかりとしている。一方で、裁判長からの問いに右耳に手をあてて聞き返す場面も多く、80歳という年齢は隠せない。
 被告は妻を殺害したことを認め、裁判の焦点は、どのような刑罰が被告にふさわしいかという「量刑」に絞られた。そのためには夫婦の生活状況や、事件当時の思いを聞く必要がある。裁判では、被告自身が妻との出会いや、犯行に至るまでのいきさつを語った。

▽職場で出会い、50歳で結婚


東京地裁の刑事裁判法廷の証言台=7月、東京都

 被告は姉と妹に挟まれた4人きょうだいの長男として1943年に生まれた。高校卒業後は飲食業界で働き、40歳の時に勤務先の新店舗で店長を任されることになった。そこに従業員として応募してきたのが、後に妻となる女性だった。「きれいな人が来たと思いました。仕事もぴしっとやる人で、気持ちの感じが違うなって」
 その後、店舗は経営がうまくいかず閉店。スナックで働き始めた女性の元に通いつめるうちに交際に発展し、50歳の時に結婚した。被告は初婚、妻は3度目の結婚だった。
 被告は定年後もシルバー人材センターに登録して精力的に働き、妻は社交ダンスやカラオケサークルにも顔を出すなど活発に活動していた。2人の間に子供はいなかったが、穏やかな老後を過ごしていた。

▽深まる孤立、「弱みは見せたくない」

 2016年ごろ、区営住宅に引っ越した。結婚から20年が過ぎ、夫婦は70代となっていた。年々目が悪くなりつつあった妻のために、病院への通いやすさなどを考えての転居だった。被告は家事を一手に引き受けるようになった。こだわりの強い妻の要望に応えて食事は朝にパン、昼は麺、夜はご飯のローテーションを守った。妻の視力悪化に伴い、風呂やトイレにも付き添った。
 活発だった妻は外出を渋るようになり、他人との交流は徐々になくなっていく。80歳を過ぎた頃には足を骨折。体はさらに不自由になった。
 「きょうだいや知り合いの手助けは受けられなかったのか」。弁護士からそう問われた被告は「古い考えなのかもしれませんが、きょうだいで男は私だけ。人に弱みは見せたくない、家族のことは家族でという気持ちがありました」と声を落とした。すべてを抱え込んだ老老介護の日々は、やがて最悪の結末を迎えることになる。

▽「限界です」未送信フォルダーに残されたSOS

 事件が起きた年、要介護1の認定を受けた妻の状態は急激に悪化した。目はほとんど見えなくなっていた。この頃から「死にたい」と漏らすようになり、「浮気をしている」と疑い深くなったり、「殺される」と近所の家のドアをたたいたりするトラブルも起きた。
 被告は介護に専念するため、シルバー人材センターでの仕事をやめた。事件直前の携帯電話の未送信フォルダーには「限界です」と書かれたメールが残されていた。
 ある日の夕飯後、妻がいつものように「財布を返せ」「浮気しているんじゃないか」と被告を問い詰めた。「相手のところに行く」と興奮した様子で外に出ようとしたのを必死に止め、寝室のベッドに座らせた。
 それから4時間以上、支離滅裂な内容を繰り返し責め立てられた。「静かにしてほしい」。気がつくと右手が妻の喉をつかんでいた。あおむけに倒れ込んだ妻の首を両手でつかみながら、近くにあった血圧計の電源コードでさらに締め付けた。
 我に返った時には、妻は動かなくなっていた。被告は隣のベッドに腰かけて酒を飲みながら、横たわる妻の顔を見つめていた。「自分だけが生きているのはありえない」。台所から牛刀を持ってきて自分に突き刺そうとした。しかし、踏ん切りはつかなかった。
 次の日の午後、被告と連絡がつかないことを心配した妹が110番通報する。警察官が自宅に訪れた。「妻は奥で寝ています」。そう言って寝室に案内した警察官に「もう死んでいます、私が首を絞めました」と告げ、その場で逮捕された。


 事件に至る経緯を聞き終えた検察官は、被告に「なぜ殺したのか」と動機を追及する。被告はこう答えた。
「妻は元々理路整然としていて、グループがあればリーダーをやるような人。それが自分のやっていることが分からなくなるようになったのが、すごくかわいそうに感じてしまいました」
 検察官は「介護にストレスがあったのでは」と続けた。ここまで言葉に詰まることも多かった被告は、この質問には、はっきりこう答えた。
 「考えたこともないです。当たり前だと思っていました。夫婦だから」

▽裁判員は問いかけた。結婚してよかったと思いますか―

 裁判では裁判員が被告に直接質問できる時間がある。裁判員は次のように問いかけた。
―奥さんはあなたのことを愛してくれていたと思いますか?
「妻は最初結婚する気はなくて、病気をした時に私がお見舞いにいったら『お礼で結婚してあげる』なんて言っていたくらいなんです。でもここ2、3年は出かけるときに『ハグして』とか言い出して。しっかりしているように見えて本当は甘えたかったのかなと。最初より、最後の方が好いてくれていたと思います」
―結婚して良かったと思いますか
「最後さえ間違えなきゃ良かったんだと思います。妻はやっぱりまだ生きたかったんだと思う。それを奪ってしまったことは申し訳ないと思っています」
 夫は涙ぐんでいた。


裁判員裁判の評議室

 最後に、検察側、弁護側それぞれが裁判でのやりとりを踏まえた最終意見を述べた。
 検察側は、被告は介護で著しく疲弊していた訳でもなく、妻の言動に腹を立てた身勝手な犯行だと主張した。「どんな理由があっても人を殺害することは許されない」と懲役7年を求刑した。
 弁護側は、人を頼るのが苦手な被告が考えられる手段はきわめて少なかったと強調する。「静かになってほしいとの一心で犯行に及んだ」と執行猶予付き判決にするべきだと訴えた。裁判の結論は3人の裁判官と6人の裁判員にゆだねられた。

▽「余生において弔い続けるべき」悩み抜いた結論

 3日後、被告に言い渡されたのは、殺人の法定刑の下限(懲役5年)を下回る懲役3年、執行猶予5年の判決だった。


 判決文を読み上げた裁判長はまず「妻は突然長年連れ添った夫の手にかけられ、その無念さは察するに余りある」と犯行を非難した。
 一方で、次のように、夫婦の生活実態が判断に影響したとも述べた。「置かれていた状況や事件に至る経緯を考慮すると、刑務所に収容することのみが刑事責任を問う唯一の手段とまで見ることはできない。その余生において反省を深め、弔い続けるべきだ」
 裁判長は判決を読み上げた後、被告に声をかけた。「結果が重いことは何度も強調したい。私たちは十分に考え、悩み抜いた中でこのような結論になりました」。判決を聞き終えた被告はゆっくりとうなずき、証言台を立って弁護士に頭を下げた。

▽悩んだ裁判員。被告にかける言葉は


会見する裁判員

 判決後、希望した裁判員は記者会見に出席する。彼らは判決を決めるまでに何を考えたのか。
 「判決が出れば気持ちが晴れやかになると思っていました。でも、今もモヤモヤした気持ちです」。40代の会社員の女性は、そう切り出した。「老老介護という社会問題として考えるべきか、それとも自分の感情に従うべきか。被告にも奥さんにも感情移入してしまい、すごく悩みました」と結論に至るまでの葛藤を打ち明けた。
 30代の男性会社員は「執行猶予か実刑か、中間がない中で意見を統合していく難しさを感じました」と量刑を決める難しさを吐露した。「人を一人殺したというのは非常に罪深いこと。余生をもって反省してほしい」と判決の一部を引用して語った。
 50代の会社役員の女性は、自身も認知症の母を介護しているだけに、胸中は複雑だったという。公判が進むにつれて事件を単なる介護殺人ととらえて良いのか、悩むようになったと明かした。「誰のための裁判なのかを考えた時に、やっぱり奥さまのための裁判だと思うようになりました。彼女が生きたかったとしたら、かわいそうな介護疲れの末の心中事件として片付けてしまって良いものなのか。今でも心残りです」
 今後、社会の中で更生を目指す被告にどう生きてほしいか。女性はこう答えた。「いろいろと制限はあるのかもしれないけれど、ほぼ普通の生活ができて、奥さまが受けられなかった支援を受けて生きていく。刑務所に行かないからこそ、もっともっと長い時間を奥さまに対して考えてもらいたいです」

 判決後、弁護側、検察側双方とも控訴せず、刑は確定した。


裁判員候補者の待合室

 裁判員制度が始まって15年。18歳以上の有権者から無作為に選ばれた裁判員が評議に加わる裁判は、全国の地裁で毎年新たに1000件近く開かれている。有罪か無罪か。実刑か執行猶予か。犯した罪と向き合うためにどのような時間を過ごさせるべきか。今日もどこかの裁判所で、被告の人生を左右する判断に市民が向き合っている。

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