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「人類の利益」のため?故郷奪われた太平洋の人々の今 ビキニ水爆70年、目の当たりにした「終わらない」被害

47NEWS / 2024年9月10日 10時0分

米国がマーシャル諸島のビキニ環礁で行った原爆実験でできたきのこ雲=1946年7月25日

 第2次世界大戦中の1945年8月、米軍が広島と長崎に投下した原子爆弾は、現代に続く核時代の幕開けを決定づけた。そして終戦後、初めて核実験が行われたのが、中部太平洋に浮かぶマーシャル諸島だ。敗戦した日本に代わって米国が統治し、原水爆実験を67回繰り返した。住民らは故郷を奪われ、放射性降下物を浴びて被ばくした上に、大海原の中で育んできた暮らしや文化の変容を迫られた。
 2024年は、静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」など日本の漁船員らも影響を受けたビキニ環礁での水爆実験から70年となる。2~3月に現地を訪ねると、核実験がもたらした苦しみが世代を超えて続いている現実を目の当たりにした。直接の体験者はもはやわずか。そんな中で、記憶の継承や更なる被害者の救済を模索する姿にも出会った。(敬称略、共同通信=野口英里子)

 ▽12年間の「核戦争」


 マーシャル諸島は29の環礁と5つの島からなる、人口4万人ほどの国だ。日本との距離は約4500キロ。第1次世界大戦中の1914年から約30年間、日本が「南洋群島」と呼ぶ地域の一部として占領、統治した。
 米軍は1946~47年、北西部のビキニ環礁とエニウェトク環礁から住民を移住させ、核実験場を設置。1954年3月1日、ビキニで行われた水爆実験「ブラボー」は広島に投下された原爆の約千倍の威力があり、飛散した放射性物質「死の灰」が一帯を汚染した。
 その後、住民の間では原因不明の体調不良や甲状腺の異常、先天的な障害を持った子どもの出産などが見られるようになった。残留放射線の懸念や再居住施策の失敗で今も故郷に帰れない人たちがいる。
 広島の「8月6日」、長崎の「8月9日」のように、マーシャルで「3月1日」は一連の核実験を思い起こす記念日とされ、毎年、首都マジュロで政府主催の被害者追悼式典が催される。今年は内外から約500人が参列。日本からも若者や被ばくした漁船員の遺族らが駆け付けた。


核実験被害者追悼式典に参加した、ブラボー実験の被ばく者や地元の若者、日本人ら=3月1日、マジュロ

 1958年まで続いた核実験の威力を合計すると、広島原爆約7千発分に相当したとされる。式典であいさつしたハイネ大統領は、核開発競争に巻き込まれた12年間を「核戦争に匹敵する状況」と表現。「他者の思惑が私たちの社会に持ち込んだ悲しみや苦悩を、他の誰にも経験してほしくない」と語った。

 ▽奪われた「宝石」


ビキニ環礁から追放された記憶を継承する集会であいさつするトミー・ジーボク=3月7日、マーシャル諸島・エジット島(共同)

 「土地は大きな海の中に見つけた宝石なんだ。土地がないということは、存在のために必要なものを持たないのと同じだ」。追悼式典終了後、ビキニ環礁の出身者やその子孫を管轄するビキニ環礁自治体の首長、トミー・ジーボク(52)は悲しげな表情で語った。自治体といっても、ビキニには誰も暮らしていない。「米国は『人類の利益のため』と言って移住させた。しかし、私たちに起きたことは何だ?」
 ジーボクの祖母らビキニ住民167人が故郷を追われたのは、ブラボー実験からさかのぼること約8年、1946年3月7日のこと。いくつかの島を転々とした後、故郷から約800キロ離れた「絶海の孤島」キリ島に行き着いた。波の穏やかな内海がなく、カヌーで漁をし、離島へ食べ物をとりに行く伝統的な生活は困難に。米軍が支給する食料に頼るしかなくなった。


 最後の核実験が終了してから10年後の1968年、米国は残留放射線のレベルは「安全」になったと宣言。本島など環礁の一部を除染し帰還を促した。十数家族が戻ったが、その後、環境中や住民の尿から高線量の放射線が検出されるなどし、再び退避した。
 多くはマジュロ環礁内のエジット島に渡った。だが、歩いて20分ほどで一周できてしまうほどの大きさしかない島で、自給自足は難しかった。近年では気候変動の影響で高潮が激化。土地の浸食が進み、住宅の浸水被害も頻発している。


波の高い外海に面したマーシャル諸島・エジット島の海岸。かつて白い砂浜が広がっていたが、深刻化する高波に砂がさらわれ、サンゴ礁がむき出しになっている=3月(共同)

 1968年の「安全宣言」を受けてビキニに家族で帰還し、その後エジット島に移住したローニー・ジョエルは「ココナッツ、パパイヤ・・・。ビキニにはたくさんの食べ物があった。エジットでは(輸入された)米や缶詰ばかり食べている。放射線は関係ない。ビキニに帰りたい」と嘆いた。

 ▽苦難の記憶つなぐ

 自治体には推計約7千人が所属する。ただ、より良い暮らしや教育、高度な医療を求めて渡米する人が後を絶たない。キリ出身のジーボクも11歳から約15年間、家族と移住。昨年11月に首長に選ばれるまで「故郷」を見たことはなかった。「砂浜は美しく、食べ物がたくさんあった」。祖母の話からその姿を想像した。
 現在ビキニに立ち入ることはできるが、「環礁全体がきれいにならなければ、かつての暮らしを取り戻せない」。再居住に向けた補償基金はあるものの、自治体民に配る食料や燃料に消えてしまう。


知人と語らうゾバニ・ジョエル(右)=3月、マーシャル諸島・マジュロ(共同)

 エジット在住の大学生、ゾバニ・ジョエル(26)はハワイで生まれた。強制移住を体験したのは曽祖父母の代。仮にビキニに住めるようになっても、定住したいとは思えないと率直だ。一方、「先祖の土地は体の一部のようなもの。死んだら、埋葬してほしい」。大切な自分の一部を「盗んだ」米国には怒りを感じている。


ビキニ環礁から追放された記憶を継承する集会で「アンセム」を斉唱する参列者=3月7日、マーシャル諸島・エジット島(共同)

 マジュロでの追悼式典から6日後。エジット島で集会が開かれた。苦難の記憶を忘れないよう、毎年3月7日に催される「もう一つの式典」。冒頭、参加者約100人は悲しげな歌声を響かせた。
 「もう幸せには暮らせない」「私の魂は漂ったまま」―。
 旧島民の1人が強制移住直後に詠んだ望郷の詩を元に生まれた「アンセム」。英語で国歌を意味する。「歌うと、真の故郷はビキニだと確信するんだ」と、ジョエルは誇らしげだった。子どもらもそらんじていた。


ビキニ環礁から追放された記憶を継承する集会で、核実験のきのこ雲を描いた絵を掲げながら「アンセム」を斉唱する子どもたち=3月7日、マーシャル諸島・エジット島(共同)

 78年前の強制移住体験者は10人を切った。「彼らはいつか帰れると信じていた。いまだ『いとしいわが家』と呼べる場所はどこにもない」。あいさつに立ったジーボクは声を震わせた。「実験も、この大量破壊兵器を一発でも使うことも、良いことではない。人々が故郷と生活を失うのだから」

 ▽「同じ思い二度と」


マーシャル諸島で行われた核実験の歴史について、子どもたちに講義するエベレン・レレボウ=2月、マジュロ(共同)

 記憶の継承はビキニの人々だけではなく国全体の課題だ。政府機関「核問題委員会」で教育普及を担当するエベレン・レレボウ(44)によると、約40年間、米国の施政権下にあったマーシャルでは、1986年の独立後も長く米国の歴史の教科書が使用され、教師ですら被害の詳細を知らない人が多い。
 委員会は核実験による被害の補償や環境修復などを実現するため、2017年に誕生した。当時を知らない世代の教育も重点項目の一つに掲げる。教育省がこの年に社会科のカリキュラムを刷新するのに伴い、核実験被害を人権問題として履修項目に組み込んだ。都市部の学校で授業を試行し、一から教材作りを進めている。
 改革の先頭に立つレレボウの養母リジョン(故人)は、ビキニ環礁から約180キロ離れたロンゲラップ環礁でブラボー実験の「死の灰」を浴びた胎児を含む住民86人のうちの1人。実験から3年後の1957年、米国の安全宣言を受けて帰還したが、流産や死産、これまで経験したことのない病気が多発し、1985年、再び故郷を離れた。
 リジョンは7回流産し、甲状腺の病気を患った。国会議員として国際社会に反核を訴えてきた一方で、娘には長く詳細を語らなかった。レレボウが母の苦労を初めて知ったのは米国の大学に通っていたとき。突然リジョンから彼女の伝記が送られてきた。そこには、これまで直接聞いたことがなかった母の人生が綴られていた。


マーシャル諸島で行われた核実験の歴史について、子どもたちに講義するエベレン・レレボウ(奥)=2月、マジュロ(共同)

 今年2月27日、マジュロにある体育館。「ビキニ環礁では何回、核実験があったでしょうか」。小中学生約200人にレレボウが問いかけた。子どもたちは「1!」「2!」と元気な声を上げたが、正解の「23回」は出なかった。
 ブラボー実験は広島原爆の千発分の威力があったこと、被ばくした住民たちは米軍に血や尿を取られ、放射線影響の「実験台」にさせられたとみられること―。写真や動画を見せながら授業は約30分間続いた。「子どもたちに同じ思いをさせたくない」。不条理に立ち向かった女性の娘として、2人の男の子の母親として、その声には熱がこもっていた。

 ▽継承の前に


アイルック環礁で目撃した水爆実験の影響を語るウィセ・リクロン=3月、マーシャル諸島・マジュロ(共同)

 「黄色やピンク色の粉が空から降ってきて、大きな音もした。とても近く(で爆発したよう)に感じた」。3月12日、マジュロの民家でウィセ・リクロン(74)は70年前の記憶をゆっくりと辿った。後にブラボー実験によるものだと知る、奇妙な出来事を体験したのは、ビキニ環礁から約520キロ離れたアイルック環礁でのこと。米軍による事前の警告はなく「何が起きたか分からず怖かった」。色とりどりの美しい「粉」が人体に有害なものだと知るよしもなかった。
 住民約400人は島の植物や雨水を摂取する生活を続けた。民家の住人で、アイルック出身のジェベ・リバー(68)は、実験後、極端に背の低い子どもが生まれたり、通常とは異なる色をしたココナッツがなったりするなど異変が相次いだと証言した。
 しかし、米国が公式に被害を認め、独立時に結んだ「自由連合協定」に基づく補償の対象としたのは、ビキニ、エニウェトク、ロンゲラップ、ウトリックの4環礁のみ。米軍の観測記録などが1990年代に機密解除され、補償対象外の地域にも汚染が広がっていたことが明るみになると、マーシャル政府は2000年、補償拡充を求め米議会に請願を提出した。しかし、米政府は決着したとして請け合わなかった。


 マーシャルの核被害を研究する明星大教授の竹峰誠一郎は、認定外の地域は社会的にも認知されず、学術的調査も報道も十分に行われてこなかったと指摘する。「継承を語る前に、誰が被害者なのかさえ確定していない」
 米国は昨年10月、2度目の協定更新に合わせ、この先20年間で総額23億ドル(当時のレートで約3400億円)の経済支援を合意。ハイネ大統領は一部を被害者の救済に充て、従来の4環礁に加え、アイルックなど9環礁にも配分する方針を示している。だが、アイルック環礁自治体のダンシー・アルフレッド市長は「少なくとも、4環礁が受けてきた分と同等の補償がされなければ公平とは言えない」と不満を隠さない。竹峰は、使い道を決めるのはマーシャル政府であり「米国が認定範囲を広げたとは言えない」と強調した。

 ▽求められる援助を


マーシャル諸島・アイルック環礁で、島民から水爆実験の影響について聞き取る明星大の竹峰誠一郎教授(左)=3月(本人提供)

 認定外地域には病院もなければ、医師もいない。竹峰は今年2~3月、マーシャル政府の要請を受け、チェルノブイリや福島の原発事故被災者らを支援する兵庫医科大の振津かつみ医師とマジュロ、アイルックを訪問。アイルック出身の約50人の甲状腺を検査した。統計的に顕著な異常は確認されなかったが、数人は経過観察が必要だと判断した。保健省と情報共有し、離島の医療アクセスの改善につなげる計画だ。
 核実験から相当の時間がたち、住民らが訴える被害と放射線との因果関係を科学的に立証することは難しい。しかし、竹峰はこう考える。「放射性物質に覆われた場所で暮らさざるを得なかったことだけでも被害と言える。求めている人がいるのならば、援助を届けるべきだ」
 それは、長崎で原爆に遭ったと訴えながら被爆者として認められない「被爆体験者」など、他の核被害者にも通じる問題だ。2021年に発効した核兵器禁止条約は、締約国に核兵器の使用や実験で影響を受けた人への援助と、汚染された環境の回復を義務付けている。理念の実現に向けて国際信託基金の創設が検討されているが、議論は緒に付いたばかりだ。竹峰は「当事者の訴えと現場の状況を捉えた制度設計が必要だ」と語った。

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