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日本は外国人捕虜に過酷な生活を強いた。一方で、周辺住民との交流秘話も。父の収容先訪れたオーストラリア男性の思いとは

47NEWS / 2025年2月5日 9時0分

戦時中、日本軍の捕虜になった父が働いた工場跡付近で、笹本妙子さん(中央)から説明を受けるロバート・ステンフェルトさん(左)=2024年11月、横浜市鶴見区

 太平洋戦争中、海外の戦地で日本軍の捕虜になった連合軍兵士が、国内各地の収容所に送られて工場などで強制的に働かされた。その一つが横浜市鶴見区にあった東芝鶴見工場だ。
 かつてここで働いたオランダ兵の息子(オーストラリア在住)が、来日して工場や収容所の跡地を訪れ、亡き父の人生をたどった。過酷な生活を強いられた一方で、周辺住民との間に心温まる交流もあったことを知った息子に、記者が思いを聞いた。(共同通信=福島聡)

 ▽背中にあった傷痕

 2024年11月上旬、JR鶴見線の海芝浦駅にロバート・ステンフェルトさん(74)と妻エディスさん(70)が降り立った。ロバートさんの父セオドロスさん(1992年死去)は戦時中、ここにあった東芝鶴見工場で1年弱働いた。


 セオドロスさんは生前、息子に当時のことをほとんど語らなかったという。戦友たちが集まる機会があっても、決して行こうとしなかった。ただ、背中に残る傷痕は捕虜時代のものだと話し「捕虜同士で互いにたたき合うことを強いられた」と回顧していたそうだ。

 ▽3万6千人が国内に


ロバート・ステンフェルトさん(右)と妻エディスさん=2024年11月、横浜市鶴見区

 ロバートさんを案内したのは「POW(戦争捕虜)研究会」共同代表の笹本妙子さんら。笹本さんや仲間は、国内各地にあった施設の実態を20年以上かけて詳しく調べた。2023年、その内容を千ページ近い「捕虜収容所・民間人抑留所事典」(すいれん舎)として刊行した。
 日本側は関係書類を終戦直後に焼却していたため、米国の国立公文書館などで資料を探した。施設があった地元でも証言や資料を粘り強く集めた上でまとめた労作だ。
 それによると、太平洋戦争中に捕虜約3万6千人が国内に連行され、約130カ所の収容所で強制的に働かされた。鶴見の収容所には終戦時にオランダ、英米兵などの捕虜が121人いた。
 今回、旅行のために来日したステンフェルト夫妻のことを、知人を介して知った笹本さんが案内役を引き受けた。

 ▽厳しい労働、空襲も

 POW研究会によると、オランダ兵はインドネシアで捕虜になり、日本軍が建設していた、タイとミャンマーを結ぶ泰緬鉄道敷設の労働に従事した。米アカデミー賞を受賞した映画「戦場にかける橋」(1957年)で描かれた強制労働だ。過酷な労働環境の下で1万2千人以上の捕虜が死亡したとされる。
 生き残ったオランダ兵捕虜は、さらに次の労働に従事させられた。1944年9月に日本に船で到着し、東芝鶴見工場へ。水銀灯製造に関連する作業を担った。ここでも厳しい労働や不十分な食事に苦しんだ。体調不良で動けなくなった捕虜を日本人の監視員が殴打し、死に至ったケースもあったという。
 米軍による周辺への空襲が原因で命を失ったケースも少なくなかった。ロバートさんらは、こうした説明を受けながら東芝工場跡を見た後、付近の収容所があった場所を訪れた。

 ▽暗闇の中の光


戦時中、日本軍の捕虜になった父が音色に耳を傾けた越田家のピアノをスマートフォンで撮影するロバート・ステンフェルトさん=2024年11月、横浜市

 笹本さんたちの調査で、捕虜たちと収容所の隣に住む越田容子さん=当時(16)=ら家族との間に、ひそかな交流があったことが分かっている。音楽学校への進学を目指して家でピアノの練習をしていた容子さん。ある日、窓から外を見ると、収容所の屋根の上に捕虜がいて、ピアノの音色にじっと耳を傾けていた。その人数は日ごとに増えていった。
 異国の地での負担が大きい作業や空腹に加え、空襲にまで見舞われる日々。音楽を楽しむひとときは、暗闇の中に一筋の光が差すような時間だったのかもしれない。
 1945年8月15日の終戦で捕虜は解放され、米軍機から彼らに向けて救援物資がパラシュートで投下された。その後、元捕虜の1人が越田家を訪ねてきた。「これをお嬢さんに」とチョコレートや缶詰、せっけんなどの品々を差し出した。
 別の日には20人ほどの男たちが砂糖袋やパラシュートの布にくるんだ物資を持ってきて「ピアノをありがとう。あの音に慰められました」と伝えたという。お返しにと容子さんと母親は家にあった人形をかき集めて、男たちにプレゼントした。彼らは間もなく帰国の途に就いた。
 ステンフェルト夫妻はその越田家を訪問した。容子さんは2022年に亡くなったが、娘(69)らと会い、当時のままというピアノに触れることもできた。ロバートさんは「この場所に来ることができて、とても幸運だ。もし父が生きていて再訪できたとしたら、どんなに喜んだだろうか」と感慨深げに話した。

 ▽国際常識と落差

 一方で、父が捕虜として受けた処遇について語るとき、ロバートさんの表情はくもった。「父が当時のことをあまり語らなかったのは、つらい出来事を思い出さないようにしていたからだと思う。忘れてしまいたかったのだろう」
 終戦後、連合軍によるBC級戦犯の裁判では捕虜への処遇が厳しく問われ、収容所関係者に対して数多くの死刑判決が出ている。ジュネーブ条約など捕虜の取り扱いに関する国際的な常識・ルールと、日本軍の考え方や対応との間の落差はあまりにも大きかった。
 最後に、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザ攻撃がについてロバートさんに尋ねた。「恐ろしいことだ」と顔をしかめ「人間は歴史に学んでいないし、進歩していないと感じる」「私たちは互いに尊敬し合わなければならない」と語った。
 取材を振り返ると、収容所近くの住民との交流秘話には救われたような思いを抱く一方で、捕虜への処遇の問題点は決して見過ごせないと感じた。
 笹本さんは、戦後の日本人にとって捕虜収容所に関する出来事は「ふたをしたい歴史」だったのだと位置づける。捕虜を巡る一連の経過は、人道やグローバルスタンダードに背を向け、独りよがりの思考に陥ることの危険性を現代にも示しているように思える。

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