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都内の住宅地に堀と土塁!? 吉良氏の居城「世田谷城」を散策 バイクで往く城跡巡り

バイクのニュース / 2023年3月19日 11時0分

東京都内には、いくつかの城跡が残っています。世田谷区豪徳寺2丁目の「世田谷城」は、往時の堀や土塁などを残した「世田谷城址公園」となり、長年地元で親しまれています。スーパーカブで訪れました。

■かつての城は、現在の住民の憩いの場に

 東京都内には、いくつかの城跡が残っています。世田谷区豪徳寺2丁目の「世田谷城」は、現在は往時の堀や土塁などを残した「世田谷城址公園」として整備され、長年地元で親しまれているようです。

東京都世田谷区の住宅地に残された「世田谷城」は、現在は「世田谷城址公園」として整備されている。階段を登れば、そこは郭(くるわ)だ東京都世田谷区の住宅地に残された「世田谷城」は、現在は「世田谷城址公園」として整備されている。階段を登れば、そこは郭(くるわ)だ

 都内に住む者としては身近過ぎて、この城の歴史などを詳しく知らずに今日まで過ごしてきました。そこで改めて、スーパーカブで訪れ、解説板を読んでみました。

 それによると、定かではないものの、1366年に吉良治家(きらはるいえ)によって築城されたと言われています。以後、吉良氏の居城として発展を遂げ、1426年には「世田谷吉良殿」などと称され、足利将軍家の御一家として一目置かれる存在だったようです。

 15世紀後半には江戸城の太田道灌(おおたどうかん)と同盟を結び、武蔵国(むさしのくに)の中心勢力として栄え、その後、小田原北条氏との縁戚関係を持つようになりましたが、1590年の豊臣秀吉の小田原攻めにより吉良氏は千葉市に逃れたため、「世田谷城」は廃城になったそうです。

入り口から階段を上ると平場に出る。ここが郭の跡とされている。非常に分かりやすい城跡で城好きにはたまらない入り口から階段を上ると平場に出る。ここが郭の跡とされている。非常に分かりやすい城跡で城好きにはたまらない

「世田谷城址公園」は南北方向に伸びる細長い土塁、その土塁に囲まれた堀や郭(くるわ)が残されており、城好きな人にとっては一目瞭然の形を成しているので興奮するかもしれません。この地域の住民にとっては子供の良い遊び場でもあり、とても歩きやすく整備されています。

 秀吉によって廃城に追い込まれたものの、現在でも姿形をしっかりと残し、「豪徳寺」や周囲の建造物と共に住民に親しまれているという面で、貴重な史跡だと感じます。

「世田谷城」の解説板はかなり充実しており、詳しく記載されているのでわかりやすい。現存する城だけでなく、隣接する「豪徳寺」などを含めた一帯が城としての機能を持っていたようだ「世田谷城」の解説板はかなり充実しており、詳しく記載されているのでわかりやすい。現存する城だけでなく、隣接する「豪徳寺」などを含めた一帯が城としての機能を持っていたようだ

 公園の隣には「豪徳寺」があり、近いエリア内に吉良氏の墓所である「勝光院(しょうこういん)」、吉良氏によって創建された「世田谷八幡宮」もあります。「世田谷八幡宮」は「世田谷城」西方の守りを固めるための出城(でじろ)としての機能も持っていたと言われています。

堀の形と、堀を噛む土塁がしっかりと残されており、城としての姿をイメージしやすい。石垣はもちろん後世のもので、往時には石垣は存在していなかったようだ堀の形と、堀を噛む土塁がしっかりと残されており、城としての姿をイメージしやすい。石垣はもちろん後世のもので、往時には石垣は存在していなかったようだ

 城と言えば要害の地に立つイメージですが、現在の公園の周囲からは想像できません。しかし解説板には、三方を川に囲まれ、南側に突き出した台地上に築かれていたようです。城の推定範囲としては、吉良氏の館を兼ねていた「豪徳寺」を含め、かなり広いもののようです。

 都会のオアシスのような城跡と城下町。たまには身近な場所の歴史を調べ、感じながら散策するのも面白いものです。

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