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「僕の母は性のこともわりとあけすけに…」内田也哉子が谷川俊太郎に聞く“ひりひりする夫婦関係”

文春オンライン / 2024年9月30日 6時0分

「僕の母は性のこともわりとあけすけに…」内田也哉子が谷川俊太郎に聞く“ひりひりする夫婦関係”

内田也哉子さん 撮影・平松市聖

 かつて恋愛ドラマの多くでは、結婚があたかも人生のひとつのゴールであるかのように描かれていた。でも実際には? いま、離婚件数が婚姻件数の約3分の1であることから「3組に1組が離婚する」ともいわれる時代。一方で、マッチングアプリが急速に浸透し、いまや結婚するカップルの4組に1組は「マッチングアプリ婚」という統計結果もある。

 結婚とは、赤の他人であったふたりが、自分たちが唯一無二の関係であると思ったり、それが大いなる勘違いであったと気付いたりしながら、格闘する過程でもある。人はひとりで生きることもできる。結婚が当たり前という時代でもなくなった。それなのになぜ、人は人と一緒にいることを選ぶのか? 夫婦、家族にかぎらず、人生にパートナーシップは必要なのか?

 その問いとともに、内田也哉子さんが、一筋縄ではいかない結婚生活を送った母と父の恋文を世に発表した、詩人の谷川俊太郎さんを訪ねた。『 週刊文春WOMAN2024秋号 』より一部を編集の上、紹介します。

 どこか私の胸をひりひりさせる夫婦がいる。この夏、私は復刻された谷川俊太郎さんの『 母の恋文 』(岩波現代文庫)の解説を書くという幸運に恵まれた。谷川さんが編んだ、ご両親の恋人時代の往復書簡集だ。 

 

 大正10年、後に谷川さんの父となる谷川徹三は京都帝大の学生だった。愛知県の知多半島で煙草の元売りと雑貨の卸小売をする家の三男に生まれ、上京して一高を卒業するが東京帝大には進まず、京都帝大で20世紀を代表する哲学者の西田幾多郎に師事していた。

 

 母となる長田多喜子は同志社女子大の前身である同志社女学校専門学部の英文科を出て、さらに音楽家を目指して勉強中だった。多喜子の父は京都府選出の代議士で奈良電鉄など多くの会社を経営する地元の名士であり、京都の上流社会で多喜子は姉花子とともに交友関係の華やかな快活な令嬢として知られていた。

 

 ふたりはこの年の秋に京都で開かれたバイオリンのコンサートで出逢い、恋に落ちたようだ。このとき徹三26歳、多喜子24歳。徹三は早速、多喜子を駅まで送っている。そして頻繁な手紙のやり取りが始まった。

 

 大型台風がどうやら東京を逸れた日、私は谷川さんをご自宅に訪ねた。

母はとにかく、父に惚れていた

谷川 「母には父のかげに隠れていないでもっと自由を謳歌してほしかったのか」という質問ですが、現在の常識ではそう思うかもしれません。でも当時は夫がある程度の仕事をして世に名前が出ていれば、妻は夫に尽くすのが当然なことのように僕にも見えていたわけです。母自身も明治の女ですから、本当に世話女房をやっていました。父に尽くしたのは、とにかく父に惚れていたということもあると思うんですけどね。

内田 なるほど、惚れていたというのはよくわかります。

〈二晩もつゞけて、あなたの夢をみました。そして眼をさましてゐる時でも、私は、あなたの夢許ばかりみてゐます。今日も一日中私は何も出来ませんでした。いつも心の中であなたのお名をよんだり、あなたのお名前を書いたり消したりしてゐました。〉

〈三時四時頃やっぱりたよりなく逢ひ度たくなって、七度七分も熱を出してしまひました。〉

 これらは結婚前のお手紙に書かれたことですが、こういうお母様の思いは日常の中でも感じましたか。

谷川 あまり感じませんね。

 ひとり息子の谷川さんが誕生したのは、結婚8年目の1931年。実は徹三は多喜子さえいれば、多喜子は徹三さえいれば何も要らない、子どもは要らないという考えだったため、危うく堕ろされるところだったという。

 

 多喜子の父が孫を欲しがったため、谷川さんは無事に誕生できた。そしていざ生まれてみると、多喜子は息子に一目惚れし、それからは夫より谷川さんに愛情を注いだ。 

 

 時を同じくして徹三には恋人ができていた。家を空けることもしばしばあったという。

母は近い存在であり、父は遠い存在でした。

内田 お母様はお父様にとことん惚れているところを俊太郎少年には見せまいとして、お父様には枯淡な態度を取っていたが故に、お父様の目が外のほうに向いてしまったということは?

谷川 そういうことではないと思うんですけどね。

 僕はひとりっ子で、親との関係でいうと圧倒的に母親とのほうが密接でした。それが嫌だと思ったことはなく、むしろ自分には快かったんでしょうね。それで得たものといえばいいのか、失ったものといえばいいのかよくわからないけれども、親との人間関係ということは、あまり考えてなかったような気がします。

 それは僕の感性の問題もあると思うけど、客観性みたいなものに気がつかないで、父親とも母親とも付き合っていたわけです。母は近い存在であり、父は遠い存在でした。そして父親は人間関係には冷たかったと思います。

内田 冷たいのに、人が嫌いなわけではないんですね。

谷川 どうなんだろうね。結婚してからも好きな女性が何人もできた人だったわけだから、人が嫌いではないんでしょうかね。

この家族会議は何かが破綻している

内田 私の父もいっぱい恋人がいた人でしたが、父の場合、自分の恋人に関する相談を私の母にしていたんですよ。私が大人になってからですが、母は母で私に「こんなことをお父さんが聞いてきたんだけど、どう答えればいいかしらね」なんて言ってくる。この家族会議は何かが破綻していると思いました。

谷川 いいね(笑)。そういう家族関係というのはよくわかるような気がするね。

内田 え、そうですか。

谷川 人間関係が希薄とまでは言わないけれど、そのぐらいの関係で生きるのは嫌じゃない。いいじゃん、そのぐらいでうまくいってるじゃん、と思うんですよ(笑)。

悲劇を喜劇に変えていく。

内田 うちは何でもあけすけで。父に愛人がいることに母も本当は嫉妬とか悲しみがあっただろうけど、家庭内だけでなくメディアを通しても何でも晒してしまって、悲劇を喜劇に変えていく。だから私は父のことを客観視できたところがあるかもしれません。私も両親の手紙を読んでみたら面白いという気持ちになると思われますか。

谷川 そう思いますよ。ただ面白いという単純な言い方だけでは済まないのは確かですけどね。

〈 谷川さんは『 母の恋文 』に1通だけ、ふたりが結婚した後の手紙を収めた。昭和29年、57歳の多喜子が徹三に宛てたものだ。それは出逢って間もない頃と同じように、こう始まる。

 

〈昭和二十九年十月十九日

 

 今日は何故か、あなたの事許り想へてしなければならない用事が一向手につきません。〉

谷川 僕の母はちょっと変わっていて、SEXのこととか、わりとあけすけに書いていた人なんですよ。

●哲学者として名を馳せた徹三さんが多喜子に送った「ベエゼ(キス)がしたい」というストレートなかわいさのある恋文、その後徹三に別の恋人がいながらも多喜子が先立ったあと思慕していた様子、言葉の魔術師である谷川さんが「言葉を信じない」と語る理由など、記事の全文は『 週刊文春WOMAN2024秋号 』でお読みいただけます。

谷川俊太郎 たにかわしゅんたろう/1931年東京生まれ、杉並区育ち。

詩人、ひとりっ子、夫を3回、子ども2人、孫4人、ひ孫1人。車とカメラと音楽と庭を眺めるのが好き。日本レコード大賞作詩賞、野間児童文芸賞、丸山豊記念現代詩賞、萩原朔太郎賞、鮎川信夫賞、三好達治賞ほか多くの受賞歴。デビュー作『二十億光年の孤独』(1952年)は今も国内外で人気が高い。

うちだややこ/1976年東京生まれ、港区・ニューヨーク・ジュネーブ・パリ育ち。文章家、戦没画学生慰霊美術館 無言館共同館主、ひとりっ子、妻、子ども3人。音とアート、旅すること、人と出会うことが好き。最新刊は『BLANK PAGE 空っぽを満たす旅』(週刊文春WOMANの連載を収録)。日曜朝のEテレ『no art, no life』で語りを担当。

題字&イラスト&写真・内田也哉子 対談構成・小峰敦子

(内田 也哉子/週刊文春WOMAN 2024秋号)

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