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【「ブラッド・スウェット&ティアーズに何が起こったのか?」評論】“血と汗と涙”の結晶。“鉄のカーテン”をぶち破った伝説のライヴへ!

映画.com / 2024年9月29日 19時0分

【「ブラッド・スウェット&ティアーズに何が起こったのか?」評論】“血と汗と涙”の結晶。“鉄のカーテン”をぶち破った伝説のライヴへ!

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 1967年、アル・クーパーの呼びかけでブラッド・スウェット&ティアーズ(以下BS&T)が結成された。一目見た米コロムビアの重鎮が契約を即断しメジャーデビューを果たす。バンドはホーンセクションを加えた9人編成、ジャズのエッセンスにロックを融合させたブラス・ロックの始祖となる。だが翌年2月にリリースされたファーストアルバムは不発に。メンバーによるとヴォーカルのインパクトが欠けていたからだ。翌月アルはバンドを去る。

 さあ、どうする。オーディションが続く中、2曲しか覚えていないカナダ出身のデヴィッド・クレイトン・トーマスがスタジオに呼ばれる。怪童がワンフレーズ歌った瞬間メンバーは喜色満面に。うってつけの存在が見いだされたのだ。1968年12月、グループ名を冠したセカンド「血と汗と涙」を発表。アルバムはヒットチャート7週連続1位に君臨。ライヴにはファンが殺到し、シングル3曲も快進撃、瞬く間にトップクラスへと躍進する。

 すべてが順風満帆だと思われたその時、魔の手が静かに迫る。カナダ時代のデヴィッドの前科に難癖がつけられ、居住権剥奪の危機に晒された。ヴェトナム戦争へのデモが激化し、反戦を叫んだジョン・レノンらを厳しく監視させたニクソン政権はグリーンカードを取り消すと脅した。窮地を救ったのは囚人上がりのマネージャー、ラリー・ゴールドブラット。米国務省との裏取引に応じ、米ソの冷戦下でソ連の影響下にあるユーゴスラビア、ルーマニア、ポーランドでプロパガンダライヴ出演を交換条件にNDA(機密保持契約)を結んで米国居住権を保障させた。

 1969年8月17日、ウッドストックで熱演するが主催者の不手際でギャラの支払いに問題が発生。怒った当時のマネージャーは数曲歌った後で撮影を禁じた。このパフォーマンスが映画「ウッドストック 愛と平和と音楽の3日間」(1970)に盛り込まれていたとしたら、バンドへの評価は別格になっていたに違いない。

 1969年、ラスヴェガスのシーザーズパレスで公演。今でこそ当たり前となったセレブ向けホテル興行がカウンターカルチャー支持者から体制派だと叩かれ、ロック信者への裏切り行為とみなされた。

 1970年のグラミー賞授賞式で最優秀アルバム賞は、次点の「アビイ・ロード」に大差をつけた「血と汗と涙」だった。BS&Tはジャズ界の重鎮ルイ・アームストロングからトロフィーを授与された。4冠に輝いたグラミー賞だが、授賞式のテレビ放送が始まったのはこの後からだった。

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