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死を想って48歳で初めてのセックスを体験する主人公の孤独が美しい「ブラックバード、ブラックベリー、私は私。」【二村ヒトシコラム】

映画.com / 2024年12月30日 21時0分

▼女たちの同調圧にも男のルッキズムにも屈しないエテロ

 これはある種のフェミニズムの映画、ある一人の女の生きかたを肯定している映画なのはまちがいない。だが女たちの連帯は肯定的には描かれていない(連帯させられることに違和感を抱いている女同士の淡い友情やケアは肯定的に描かれる。エテロは孤独ではあるけれど孤立はしていない)。

 連帯が自分の傷をごまかす行為になってしまうことがある。自分たちに連帯しようとしない異物を意地悪に排除したり、クソバイスしたがる上から目線も生みがちだ。他人の生きかたについてつべこべ言いたがる村の女たちは、外見はエテロよりも多少は、ごくごく多少は美しいのかもしれないが、心は美しくない。彼女たちは同質性のコミュニケーションには長けているかもしれないが、お茶を飲みながらエテロを論評することで自分たちも本当はさみしいのだということを忘れようとしている。

 孤独を選んでいるエテロを嗤(わら)う女たちは、エテロの容姿を遠くから論評する無作法な男と同じだ。

 彼女たちが(我々が)しているのは「会話」にすぎない。会話はもちろん人間関係の潤滑油としては必要なのだが、永遠にそれだけをつづけていても仕方あるまい。エテロは孤独なままで彼女たちの馴れあいのコミュニティに、言葉少なに(ときには奇妙に饒舌に)対話をもちこむ。「対話する」とは、べつにことさら相手を説得しようとする行為ではない。空気を読まず、異物としてそこにあるということだ。エテロは女たちの同調圧にも男のルッキズムにも屈しないで、一人でむしゃむしゃと高カロリーのスイーツを頬ばる。うまそうだ。おみやげにも買って帰る。

▼エテロにとってのセックスの意味

 人間は何のために生きるのか。そんなふうに主語を大きくしたら「子孫を残すため」みたいなくだらない話になっちゃって、ついに子を作らなかった人は困ってしまう。主語は小さく。人類の一人である「あなた」は何のために生きて、どういうふうに死んでいくのか。人類みな兄弟なんだから子供なんかは人類の他の誰かが作ってくれるだろう。

 エテロは映画の冒頭で孤独とともに自分で摘んだブラックベリーを味わい、小さな魂のような黒い鳥の瞳と羽ばたきを眺め、自分の近未来の死を幻視した。死を想ったから、いままでの人生で縁がなかったセックスがしたくなった。セックスの意味なんてそんなものだ。だが切実なことだ。

 村の女たちはバイアグラが開発されたことを(ジョージアの田舎の薬局でも、きっと世界中で、勃起補助薬は売られているのだ)嗤っていた。彼女たちにとってセックスはそんなに切実ではない。子供を作るとか夫をつなぎとめておくとかの「機能」にすぎない。もしくはマウンティングの道具。もしくは本当は切実なことなのに、惨めな男の滑稽さを嗤うことで自分の切実さを忘れようとしている。

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