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若き日のボブ・ディランに影響を与えた“伝説の歌手”を演じるために――エドワード・ノートン&モニカ・バルバロ「名もなき者」秘話を明かす【NY発コラム】

映画.com / 2025年1月16日 10時0分

ノートン「いい質問だね。ありがとう。あなたの言う通り、30年代から40年代にかけての彼の進歩的な大義に対するコミットメントの深さ、私がある意味最も啓発されたのは、50年代のマッカーシーによる赤狩りの最中に、彼がブラックリストに載ったことです。そして、ブラックリストに載ったことで、10年近くもプロとしてのキャリアがほぼ閉ざされてしまった。そして今作(で描かれる時代)が始まるとき、彼は再び姿を現しているんです。フォークを存続させるために彼がしてきた多くの仕事が、新しい世代によって花開いている。ジョーン・バエズ、そして特にボブ・ディランのような人々がバトンを受け取り、新しい世代へと受け継いでいく光景を見ることが、彼にとってどれほど大きな喜びでだったか。それを理解することが、私にとって本当に重要なことでした」

 フォーク・リバイバル運動の中心人物であったシーガーと、当時、病に伏せていたフォーク歌手のウディ・ガスリーとの出会いから“新たな道”が切り拓かれていく。ガスリーとシーガーは、50年代から60年代にかけてフォーク・ミュージック・リバイバルを起こし、フォーク、つまり“人々の歌”をもう一度自分たちの手に取り戻そうという運動を行った。ブルースやブルーグラスなどのルーツを再発見する運動でもあったように思えるが、その時代から何を学んだのだろう?

ノートン「当時、ピート・シーガーは、スミソニアン(博物館)でフォーク・ミュージックのカタログを作る仕事もしていました。だから、彼がいろいろな意味で音楽史家だったというのは、とても正しいことなんです。彼が2000曲以上の曲を記憶していると考える人もいたくらいです。彼は音楽に関する膨大な百科事典のような知識を持っていて、いろいろな意味で音楽保存主義者でした。音楽を通じてアメリカ文化が保存されるように努めていて、当時の多くの人々にとっては、フォーク音楽の高僧のような存在だったと思います。ディランやジョーン・バエズと同世代の若い世代に話を聞くと、彼らは彼を精神的な存在として見ていました――友人ではなく、別の意味で、彼らの中で高貴な存在だったんです。ジム(=ジェームズ・マンゴールド)は映画の中で、それをうまくとらえていたと思います」

 シーガーはディランの良き理解者だったのだろうか? シーガーは、ディランにフォーク・ミュージックのバトンを渡した人物であり、ニューポート・フォーク・フェスティバルの「マギー・ファーム」でエレキ・ギターを弾く際のディランの“変化”にも立ち会った人物でもある。

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