「むなしく死んだ父のようにはなりたくない…」一念発起し向かったロンドンで50代女性が巻き込まれた「事件」とは
Finasee / 2024年5月7日 17時0分
Finasee(フィナシー)
葬儀場の待合室から父の亡きがらが焼かれている火葬場を見る。
12月の寒い季節に、父が天国へと旅立った。美穂の53回目の誕生日、その翌日が父の命日になった。
美穂がまだ幼かった頃に母が亡くなり、父は男手一つで美穂を育てあげてきた。父は自身が興した会社にも心血を注ぎ、成功を収めている。
遠くから見ると、父は尊敬される人だったかもしれない。しかし仕事に命をかけた父の葬儀の参列者はとても少なかった。今、来ている参列者も単なるアリバイ作りで来ているだけだろう。こんなにも形式的で、渇いた葬儀も珍しい。
それも、仕事で財をなすと共に、他人を信用することができなくなった父は、多くの人間関係を断ったことが原因だった。
最終的に残された味方は美穂だけ。美穂は長い間、父の介護を献身的に行い、最期もみとることができたが、結局父は金を残しただけで、誰の記憶に残ることもなく旅立ってしまった。
葬儀が終わり、忌引休暇も消化し終えて美穂はまたいつものように仕事に復帰する。父がいなくなってからの生活は快適で、むなしかった。長らく父の介護をしていたからか、家があまりにも広く、暗く感じられた。
美穂の生活は仕事と家の往復。遊ぶような友達も恋人も、介護を理由に疎遠になっているうちに美穂の周りからはいなくなっていた。
ソファに座り、取りあえずテレビをつけて、ご飯を食べる。あとはそのままソファで本を読んだり携帯を眺めたりしているだけ。寝るまでの暇つぶしだ。
やがて睡魔がやってきて、美穂はテレビを消した。このまま仕事だけをこなす毎日を過ごして最期を迎える。そんな人生をぼんやりと思い描き、美穂ははっとする。
これでは父と同じ人生だ。
何かをしなければいけないと美穂は焦った。
結婚だなんだを夢見る年齢ではないかもしれない。しかし死ぬまでに、何か人生に彩りを添えたいと思った。
人生初の海外旅行・ロンドンへ海外旅行を選んだのは分かりやすかったからだ。周りの環境をガラッと変える。変化が1番、彩りとして分かりやすいと思った。
場所はヨーロッパ。映画を見ていてきれいな街並みだと感じていたイギリス、ロンドンを目的地に決めた。2月になり、美穂はたまりにたまっていた有休を使ってロンドンへ向かった。
東京からロンドンまでは飛行機で約15時間。少し悩んだが、父の遺産もあったので、思い切ってビジネスクラスにした。
ヒースロー空港に降りたつと、そこはもう英語と見知らぬ人しかいない世界だった。そこからすぐにエクスプレスに乗りロンドン市内へと向かう。パディントン駅を出た瞬間に、今まで見ていた景色と全く違うことに驚いた。
曇りが多いと聞いていた空は真っ青に広がっていた。イギリスは1日の中に四季があると言われている。駅の外にはクリーム色や茶色の建物が連なり、いろいろな人種や年代の人たちが歩いている。
美穂が日本では、見たことのない世界がそこには広がっていた。他人と違うことが当たり前の世界。
気候も寒いが、東京ほどではない。太陽の光が心地よく、体を温めてくれている。それ以上に美穂の体内の温度は感じたことのないほどに熱くなっていた。
映画の中に入ったみたい。
すぐに駅近くのホテルへチェックインを済ませ、重たい荷物から解き放たれた美穂は意気揚々と街へ繰り出した。まずはロンドンで有名なテムズ川にかかったタワーブリッジを渡り、ロンドン塔の周りを散策する。
テレビで見ている印象より、ロンドン塔はとても大きく、見上げるだけで疲れてしまいそうだった。
それから美穂は地下鉄に乗り、セント・ジョンズ・ウッド駅へと向かう。ロンドン市内はいくつもの名所があるが、それらのほとんどを地下鉄で移動できるのはすごく助かる。こんなに観光がしやすい都市もないのではないかと美穂は思った。
セント・ジョンズ・ウッド駅で降りた美穂の目的地はアビーロード。ビートルズの有名なアルバムのジャケットに使われた場所で今もなお、多くの観光客が訪れている。美穂はビートルズの曲を聴きながら、アビーロードにたどり着いた。
あまりにも平凡でどこにでもある横断歩道だが、数多くの人たちがそこで写真を撮ったり、ビートルズをまねて歩いたりしていた。一緒に旅をするような友達がいないことを少しだけ呪(のろ)いながら、美穂は横断歩道を渡る。
父も好きだった偉大なるミュージシャンと同じ土地を踏みしめられたことに感激しながら、また別の場所に向かって美穂は歩き出した。
財布がない!次に向かったのはキングス・クロス駅。ここは世界的にもはやった魔法学校を舞台とした映画で有名になった駅で、イギリスでも主要ターミナルとして使われているのでとにかく人が多い。
思いつくままに行動できる。これも1人旅の利点だった。向かった先は初日のメインイベントにしていた大英博物館。入場料は無料だが、入り口で5ドルを寄付し、そこから幾つもの歴史的で有名な作品を見て回った。見終わってから博物館を出ると、美穂は大きく息を吸い込んだ。
もう夕方になる。
ロンドンに来てから数時間しかたってないのに、美穂にとっては何十年分の刺激を一手に味わっているような気持ちになった。
こんな経験ができるなんて。
もっと早くに来ていれば良かったな。
美穂は来た道を戻り、ホテル近くのショッピングモールを歩く。雰囲気の良さそうなアンティークの店を見つける。
これまでの人生で物欲がないことを自負していた美穂だったが、こういうお店に入るといろいろなものが魅力的に見えてしまう。これもイギリスという土地がそうさせているのかもしれない。いかにもロンドンらしいティーカップやオルゴールなど幾つも手に取ってしまう。
迷ったなら全部買ってしまえ。美穂は気に入った商品を全て抱えてキャッシャーへ運んだ。
黒人の女性店員は仏頂面で商品の値段をレジへ登録していく。美穂は財布を取り出そうと肩掛けポーチを手に持って違和感に気付く。
ポーチは明らかに軽かった。
体中の体温が一気に冷めていくのを感じた。
恐る恐るポーチを前に持ってきて中身を確認する。
ない。
財布がない。
落とした。いやあり得ない。地下鉄で切符を買ったときには確かにあったはずだ。
その後はポーチに戻して、触ったりしていない。
なのに、ない。
店員が商品の合計金額を指で指し示す。しかしいくらだったとしても払うことはできなかった。
●体から血の気が引いていく美穂、人生初の海外旅行でのトラブルを無事に乗り切れるだろうか……? 後編【「英語が出てこない!」初めての海外女1人旅でスリ被害に…窮地を助けた“恩人”の正体は?】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
梅田 衛基/ライター/編集者
株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。
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