戦争の跡にしか見えなかった…阪神淡路大震災30年 小6で被災、夕刊フジ・山戸英州記者の手記 生死を分けた数十秒
zakzak by夕刊フジ / 2025年1月17日 15時30分
6434人が犠牲となった阪神淡路大震災から17日で30年となった。神戸市中央区では「1・17のつどい」があり、竹や紙の灯籠が並ぶなか、市民らが発生時刻に合わせ黙禱(もくとう)した。1995年1月17日午前5時46分、兵庫県淡路島北部を震源に発生したマグニチュード(M)7・3の地震は、観測史上初の震度7を記録、都市部も甚大な被害をもたらした。震災を経験していない世代が増え、記憶や教訓の継承が難しくなるとされる「30年の壁」をどう越えるかが課題だ。当時、神戸市内で被災した夕刊フジ運動部の山戸英州記者(42)が生死を分けた体験や、後世に語り継ぐことの重要さを手記につづった。
◇
神戸市中央区に実家がある私は当時小学6年生。2カ月後には卒業式が控えていた。3連休が終わった1月16日夜、「明日からまた学校か…」と憂鬱な気持ちのまま寝床に入ったことを今でもよく覚えている。それから6時間後、マンションの6階にある自宅の1人部屋で激しい揺れに襲われた。タンスが倒れ物がどんどん落ちてくる。「何やこれ!?」。あの数十秒が生死を分けたことは当時、みじんも感じなかった。
服を重ね着して何とか外に出たが、あたりは真っ暗、停電して街灯も消えたままだった。一瞬、自分の目がおかしくなったのかと錯覚に陥った。家族の無事を確認して手探りのまま非常階段を降りると茫然(ぼうぜん)自失した住民であふれていた。海からそれほど離れていない地域。もし東日本大震災のときのように津波が来ていたら…きっと命は助からなかったと思う。
しばらくすると西の空が妙に赤くなった。近所に住む同級生が自転車にまたがりながら「長田に住むおばあちゃんに連絡がつながらない…」と声をかけ先を急いだ。命は無事だったが、想定外の延焼火災で何も持ち出せず自宅を失ったと後に聞かされた。
余震が収まらず昼過ぎに小学校へ避難しようとしたがすでに体育館、教室には人が押し掛けていて諦めた。仕方なく当日は自家用車内で祖母ら家族5人で毛布にくるまりながら一夜を明かした。
翌日からはマンション1階の空き店舗で5家族20人ほどが身を寄せ合い、自主避難生活を送った。水くみや、個数制限があったコンビニのパンやおにぎりの購入列にも並んだ。少し時間がたつと大人たちは自分たちの仕事を心配し始めた。自営業で職を失った男性は、毎晩周りが寝静まると酒を飲みながら静かに泣いていた。
1週間ほどして長田区の菅原市場に足を運んだ。焼け焦げた地面はまだ熱かったと思う。最近、30年前に書いた文集を読み返したが歴史の本を思い出してか「戦争の跡にしか見えない」と記していた。それほどの衝撃を受けた。
神戸の街に「震災前」「震災後」という言葉を生んだ日から30年。子供ながらに初めて生死に直面した瞬間はあまりに強烈だったが記憶はだんだん薄れている。今年は震災の体験を神戸の小学生に直接話す機会を初めて得られた。話さなければ、記さなければ後世に伝えられない。私にとって五感で得た「1・17」は一生忘れることはない。
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