1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. スポーツ
  4. サッカー

[NB×横浜創英高]現役時代は俊輔とプレーしたサッカーエリート、“脱サラ監督”が10年目の悲願へ…横浜創英が初の全国選手権出場を目指す

ゲキサカ / 2016年10月22日 20時44分

 教員を目指す間、指導者としての“勉強”も並行した。大学の先輩の伝で神奈川県にあるジュニアユースチームの監督として手伝いを続けた。「接し方というか、サッカーの理論などではなくて、子供たちとの距離感、それはあの時にすごく学んだと思っています。そのあと創英に来た時に、子供たちにかける言葉はスムーズに行けましたからね」。指導者としての礎はここで築かれた。

 高校時代、プレーヤーとして全国を知る宮澤監督だが、選手時代の話を自ら切り出すことはない。「自慢話になっちゃうんでね」。ただ俊輔の当時の姿勢を話すことはあるという。

「なぜ俊輔があの位置まで行ったのかという話をします。彼は中三の時にマリノスのユースに上がれなくて、桐光学園に行って、それから日本代表の10番をつけるようになった。要するに15歳の時に周りの大人はこの子が将来、日本代表を背負うということがみんな分からなかったわけですから」

「ではなぜ行けたのか。一番大きく違うのは意識なんですけど、これが圧倒的に違う。高校生ながら24時間、サッカー選手として確立しているような生活を送っていたんです。朝何時に起きて、朝食をとって、授業を受けて、放課後に練習して、練習終わったあとに自主練をして、また朝が来て、と常にリズムが一定でブレがない。プロ意識がものすごかったですね」

 横浜創英で指導者を始めたある日、今でも交流があるという後輩の中村俊輔に疑問をぶつけることがあった。俊輔とは横浜FMジュニアユース時代から桐光学園までの5年間をともにプレーしている。「僕が質問したんですね。小学校のトレーニングって遊びから学ぶというところだと思うんですけど、本格的なサッカーのトレーニングって中学からじゃないですか。中学、高校と俺はお前と一緒の練習をしてきたのに、なんで俺はこうで、お前はそんなになったんだって。俺の知らないところで隠れて練習してきたんだったら俺は追いつけないよ、と」。

 俊輔の答えは明確だった。

「そしたら彼は言ったんですね。『俺は15でサッカーを奪われたんだよ。崇史くんは奪われてないでしょ。その差なんだよ』って。彼はユースに上がれなくて、15歳でサッカーを奪われたという感覚になった。僕はユースに上がることも外にも出ることも選べたので、その感覚はなかったんですね。『もう二度とあんな思いはしたくない』という気持ちでやってきたやつと、挫折を知らないでやってきた差じゃないかと言われたんです」

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください