30歳サラリーマンがJリーガーを目指す!?(『それ自体が奇跡』第1話)
ゲキサカ / 2017年12月21日 19時59分
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逃走の三月
「では貢の新たな門出を祝して」と研吾。
「門出は変だろ」とおれ。
「冒険は冒険だから門出でしょ」と俊平。
「ジョッキが重いから早く!」と春菜。
「乾杯!」と研吾が最後に言って、おれらは乾杯する。
ジョッキは一人一人と当てる。おれは、正面の春菜、右隣の俊平、右ななめ向かいの研吾、の順。そしてビールを飲む。オリオンビールだ。よく冷えている。ジョッキの半分ほどを一気にいってしまう。
今年三十一歳になる四人。ここで無意味にパチパチと拍手をしたりはしない。あぁ、だの、うまい、だのと口々に言い、ジョッキをコースターに置く。
「それにしてもよく集まれたよな」と研吾。「逆に、こんな機会でもないと集まれない。その意味ではよかったよ、貢が無謀な挑戦をしてくれて」
確かにそうだ。こんなことでもない限り、同期は集まれない。それぞれに休みや勤務のシフトがちがうので、日程を調整するのは難しい。同期だからとの理由だけで集まれたのは、初めの三年ぐらい。そのあとは、異動だの結婚だの離婚だのがなければ集まらなくなった。今日のこれはかなり特殊な例だ。
三十歳でいわゆる本気のサッカーを始める田口貢の壮行会。集まったのは同期三人。柳瀬研吾と若松俊平と横井春菜。場所は銀座。勤める百貨店の近くにある沖縄料理屋。綾とも何度か来た店だ。午後九時の予約。やや遅めのスタート。百貨店の営業が午後八時までだから、どうしてもそうなる。四人全員が明日も仕事。二次会に行く余裕はない。
「何にしてもすごいよ」と今度は俊平。「Jリーグ入りを狙うチームなんでしょ? 貢、そんなにすごい選手だったんだね」
「すごくはないよ」と返す。「まだ何もしてない。おれ自身がプロになるとか、そんな話ではまったくないし」
「なのに三十の今から本気でやるっていう、そのモチベーションがすげえよな」とこれは研吾。
「そんな大したもんじゃないよ。会社の部はなくなったけどサッカーはやりたいってだけ。声をかけてくれたクラブの代表も、本気ではやるけど軽い気持ちで来いって言ってくれたし」
「いいな、それ。本気だけど軽い気持ち」
「でも」と春菜。「よく綾さんが許したね」
「うーん。許しては、いないのかな」
「そうなの?」
「たぶん」
綾はおれと同い歳。だが高卒で入社したので、同期ではない。四年先輩。だから春菜の呼び方も、綾や綾ちゃんでなく、綾さんになる。綾も店で働いているから面識はあるが、仲間というほどではないのだ。
ゴーヤーチャンプルー。ラフテー。もずくの天ぷら。グルクンの唐揚げ。頼んだ料理が続々と運ばれてくる。海藻とはいえ天ぷら。魚とはいえ唐揚げ。アスリート向きのメニューではない。だが、いい。それこそプロではないのだ。飲むときにまで抑えたくない。フィジカルのためにメンタルまで縛りたくない。
「チームメイトには若いのもいるんだよな?」と研吾がおれに尋ねる。「歳が近いやつだけじゃないだろ?」
「ないどころか、若いのばっかりだよ。三十代はおれ一人。今年から社会人てのも何人かいる。強くなるためにはどんどん新しい血を入れていかないと」
「まあ、そうか。そのなかでやるのは、やっぱすごいよな。大学出たてのやつなんて、体力バリバリじゃん。そんなのに勝てるわけ?」
「体力では厳しいから、それ以外のとこでどうにか」
「それ以外か。おれみたいな素人は、ゴルフとかならともかくサッカーはキツいだろって思っちゃうよ」
「キツいことはキツいよ。今、走らなくていいサッカーなんてないから。まあ、走ることだけがすべてでもない。そう思うことにしてるよ」
「思うことにしてるってのもいいな」と研吾が笑う。「思わなきゃ、やってらんないもんな。おれもさ、結婚生活を無理に続けることがすべてではないと、そう思うことにしてるよ」
「それはちょっと笑えないよ」と俊平も笑い、
「笑えない笑えない」と春菜も笑う。
言っているのが研吾だから笑えるが、確かに笑えることではない。研吾は離婚している。結婚も早かったが、離婚も早かった。結婚したのが二十六歳のときで、離婚したのがその二年後。相手はメーカーから派遣されていた二歳下の販売員。仁科里乃。名前も顔も知っている。披露宴に呼ばれたから。
入社後三年は呉服部にいた研吾は、すでに外商部に出ていた。対して里乃は化粧品の販売員。研吾が抱えていた顧客に、里乃のメーカーの製品を好んでつかうマダムがいた。そのマダムを売場に何度も案内するうちに、研吾自身が里乃とそういうことになったのだ。
自身が広告となるべくあれこれ塗りまくるよう指示されていたからか、里乃の外見は派手だった。が、内面はそうでもなく、話してみればむしろ堅実な感じがした。だから安心していたのだが、二人は二年で破局した。
研吾の結婚を祝してこんな飲み会をやり、二年後、離婚した研吾を慰めるべく、またしてもこんな飲み会をやった。その二つが、まさに同期が集まるいい理由になった。
今日は一応おれの壮行会ということになっているが、実はもう一つ理由がある。七月に俊平が結婚するのだ。それがメインの理由にならなかったのは、先々週の土曜日に祝う会をやってしまったから。その日はチームの練習があったので、おれは出られなかった。練習だけならどうにかなったが、その後、新入団選手の合同歓迎会が開かれた。歓迎される側として、そちらを優先せざるを得なかったのだ。
俊平は七月に、三歳下の社員、米沢香苗と結婚する。そうなると、今ここにいる四人のなかで結婚歴がないのは春菜だけ。それは意外な感じがする。このなかでなら春菜が一番先に結婚するだろうとおれは思っていた。根拠もある。入社したときから、春菜には彼氏がいたのだ。
それを知ったのは、入社二年めあたり。付き合おうかというようなことをおれが言ってしまったからだ。
迫ったわけでも何でもない。あくまでも軽く言っただけ。部の練習後にグラウンドで。ポンポンとそれこそ軽めのボールリフティングをしながら。本気混じりであることは伝わったと思う。だからこそ春菜は言ったのだ。わたし彼氏いる、大学のときから付き合ってる、と。そう。春菜は同期にしてサッカー部のマネージャーだった。監督の磯崎さんに誘われたのだ。大学時代にバスケ部のマネージャーを務めていた経験を買われて。
今、春菜は子供服部にいる。子どもはいないのに子供服のことはやけにくわしくなっていく、と嘆いている。去年からは仕入業務にも関わっているらしい。まだ主任だが、持たされる責任は増したようだ。同じ主任でありながら単に婦人服部の一員でしかないおれとはえらいちがいだと思う。
男三人は二杯め、春菜は一杯めのジョッキが空く。おれと研吾は引きつづきビールを、俊平はせっかくだからと春雨カリーなる泡盛を、春菜はシークヮーサーサワーを頼む。順調に酔いがまわった研吾は言う。
「貢はいいよなぁ。夢があって」
「何だよ、それ」
「普通、三十で夢は持てないだろ」
「別にそんなのじゃないって。ただサッカーをやるだけの話」
隣の芝生は青い。その典型だと思う。おれに当てはめて言うなら、隣のピッチは青い、か。三十歳で本気のサッカー。夢などではない。なら何なのか。逃げに近いかもしれない。近いというよりは、逃避そのものだ。何からの? 仕事からの。
「おれら同期のトップなんだから、がんばってくれよな。何ならJリーガーになっちゃえよ」
「クラブがプロ化するころにはもう引退してるって。その前に、トップって何だよ。ボトムに向かってそれはないだろ」
「は? どこがボトムだよ。会社の期待を背負ってんのに」
「まさか。会社は困ってるよ、おれをいさせる場所がなくて」
「いさせる場所がないやつを八年も婦人に置いとかねえって」
「それはあれだよ、売場自体が大きくて、おれがいても邪魔にならないからだよ。ほかに黒須くんもいるし」
「黒須? そんなら貢のほうが上だろ」
「いやいや。それこそまさかだよ」
歳下に抜かれたくない。同期が抜かれるのも見たくない。今のは研吾の意地から出た言葉だろう。
「やっぱ見てくれがいいのはデカいよな。さすがにアスリートだからさ、貢はスタイルがいいんだよ。スーツ姿も栄える。見栄えがいいんだ」
「それ、わたしも思った」と春菜。「売場に田口くんがいると、何か華やかだよね。背が高いから、遠くからでもわかるし」
「そうそう」と俊平。「催事場で目立つよね。お客さまも忘れないと思うよ」
「大げさだよ」
「いや、そういうのはほんとにデカいんだって」と研吾。「貢は顔も悪くないけど、何ていうか、よすぎない。タレントみたいな顔だと、それはそれでダメなんだ。その感じが好きな女性客は集められるけど、そうじゃない人はむしろ引くから。その点、貢はちょうどいいんだよ。華やか。でも度を越さない。会社が売場に置いときたくなるのもわかるよ」
「だから大げさだって。そこまでいくと、悪口にしか聞こえない」
それでも、いやな気はしなかった。来てよかったな、と思う。少し気持ちがほぐれる。
結局、オリオンビールをジョッキで四杯飲んだ。男三人は締めに沖縄そばを食べた。ハーフサイズとのことだったが、量はそれなりに多かった。
「いつもながら、男の人のその締めっていう発想はよくわからない」と春菜は笑う。「何を締めてるのか、何で締める必要があるのか。ほんと、わからない」
「最後はやっぱ炭水化物をがっつりいきたくなっちゃうのよ」と研吾が説明した。「おれの上司なんてもう四十だけど、こんなふうに締めたあと、さらにラーメン屋で締めたりするからな。しかもそこでまたビール。太るだろ、そりゃ」
「貢はアスリートだけど、こんなふうに締めちゃっていいわけ?」
俊平にそう訊かれ、こう答える。
「その分のカロリーは体を動かして消費するよ。でも、まあ、これが最後の締めかな」
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