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体験者が明かす…W杯メンバー選考とその苦悩

ゲキサカ / 2018年5月18日 7時0分

 日韓大会のときも23名に絞り込むのが一番難しい作業でした。

 事前合宿から決勝まで、選んだ23人で1か月以上戦います。もし調子を落とした選手がいたら、調子が悪いまま大会を戦うことになるため、1人欠いた状況と等しくなってしまう。そこでコンディションがカギになるのですが、加えてチームの中での“役割”というのもすごく重要になってきます。

 まずは、スタメンで90分戦える選手。そこに、流れを変えられる選手や極端な特徴を持っているスペシャルな選手を加えていく。限られた人数で編成していく中で、複数のポジションを高いレベルでこなせる選手は非常に貴重な戦力になります。ユーティリティな選手が1人でもいると、戦術的にゆとりを持てるからです。

 いまは同じフォーメーションを使い続けて勝てるような時代ではありません。相手の弱点をいかに突くか、こちらの弱点を突かれたときにどうカバーするか。フォーメーションと選手の組み合わせを状況に応じて何百、何千もシミュレーションした上で、W杯本番では23人に落とし込んでいくわけです。

 もうひとつポイントとなるのが、23人の一体感。日韓大会では中山雅史(沼津)と秋田豊が最後の最後でメンバーに名を連ねました。彼らはメンバー発表直前の欧州遠征には帯同していません。欧州遠征ではレアル・マドリーとノルウェー代表に連敗してチームが追い込まれてしまったときに、「いまのチームで大会を戦い抜くのは厳しい。あの2人が必要だ」ということに気がつき招集することになったのですが、最後の23人を選ぶまでは苦悩の連続でした。

 ノルウェーで遠征最後の試合を終えた後、(フィリップ・)トルシエ監督、私を含めた3人のコーチングスタッフ、通訳の(フローラン・)ダバディの5人で、誰を選ぶかミーティングを行いました。模造紙に名前を書いていったのですが、証拠が残らないようにノートは一切とらない。ようやくメンバーが決まったところでトルシエ監督だけがメモをとって、模造紙はすべて細かく破いたうえで残さず処分し、「知っているのはここにいる5人だけ。これで漏れたらこの中の誰かだから」という状況にしました。

 メンバー発表当日、日本サッカー協会の人間ですら、中山と秋田の名前に驚いたくらい情報管理を徹底したのです。

2002年5月17日、運命の発表を行う30分前に日本サッカー協会にFAXが届いた。フランスにいるトルシエ監督から送られた最終メンバーのリストだ。日韓大会は日本が出場した5大会で指揮官の口から発表されなかった唯一のメンバー発表となった――。

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