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角川博さんは五木ひろし「旅鴉」で“こぶし”を学び、演歌の世界で生きていくと決めた【私の人生を変えた一曲】

日刊ゲンダイDIGITAL / 2024年8月13日 9時26分

角川博さんは五木ひろし「旅鴉」で“こぶし”を学び、演歌の世界で生きていくと決めた【私の人生を変えた一曲】

角川博さん(C)日刊ゲンダイ

【私の人生を変えた一曲】#76

 角川博さん(歌手/70歳)

 昨年、古希を迎え、演歌界のベテランとして活躍する角川博さん。4年前に亡くなった西城秀樹と同郷で知られ、紅白出場は3回を数える。演歌歌手として悩んだ時に学んだのが五木ひろしのこぶしがきいた名曲「旅鴉」だった。

  ◇  ◇  ◇

 広島から出てきてデビューしたのは1976年のことです。そもそも僕は演歌歌手になるつもりはなかったんですが、この世界で生きていくと決めて練習したのが、こぶしのきいた五木さんの歌です。

 広島の実家は新聞販売店が家業です。僕も子供の時から新聞配達をしていました。その時に店のラジオから流れていたのは広沢虎造の浪曲でしたね。テレビではポール・アンカやエルビス・プレスリーを見たり。中学の時にはビートルズが日本にやって来ましたから、ビートルズも聴きました。ビートルズで一番いいなと思ったのはビョ~ンというギターで始まる「アイ・フィール・ファイン」かな。

 中学卒業の頃にはやっていたのはグループサウンズ。要するに、演歌とか日本の歌はあまり聴いていなかったんです。

 物心がついた頃からやっていたのは野球です。グラブとボールを持ってオヤジと。高校は野球で知られる広陵高校です。僕は軟式だったけど、その頃になると、もう音楽よりも野球漬けです。ただ、合宿で先輩から「歌え」と言われることもあった。ちょうど前川清さんの「長崎は今日も雨だった」がヒットしていた頃で、歌ったりしてましたね。

 この世界と縁ができるのは高校を卒業してからです。作曲家の浜口庫之助さんに弟子入りしたいとこがいました。彼は結核になっちゃってね。

野球少年がクラブ歌手になって迎えた転機

 療養してから地元の流川のクラブで歌っていました。僕は洋品店やボウリング場に勤めていたけど、合わないからやめてブラブラしてたら、いとこに「おまえも歌うか」って誘われた。クラブで歌うことに親は反対です。それをいとこが説得して、僕もクラブ歌手として歌うことになったんです。

 その店は藤本好一さんという方がやっていました。寺内タケシとブルージーンズとも曲を出したりした藤本さんは、秀樹さんをスカウトし、デビューのきっかけをつくった人です。その藤本さんから「博多でパフォーマンスバーをやるから一緒にきてくれないか」と誘われました。僕はそこで「次は五木ひろしさんの登場です」「森進一さんです」という感じで歌っていた。それで「歌がうまいな」「あいつ、面白いな」と評判になって、秀樹さんと同じ事務所からデビューすることになったんです。

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