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《小久保監督 #1》球団に異例の直談判…入団早々にチームのルールを変えさせた練習の虫【ホークス一筋37年 元名物広報が見た「鷹の真実」】

日刊ゲンダイDIGITAL / 2024年9月5日 17時0分

《小久保監督 #1》球団に異例の直談判…入団早々にチームのルールを変えさせた練習の虫【ホークス一筋37年 元名物広報が見た「鷹の真実」】

ダイエー時代の小久保監督(C)共同通信社

【ホークス一筋37年 元名物広報が見た「鷹の真実」】#1

 小久保監督(1)

  ◇  ◇  ◇

 今季からソフトバンクの指揮を執る小久保裕紀監督(52)。チームは4年ぶりのリーグ優勝、日本一に向けて首位を快走していますが、現役時代からリーダーシップに優れ、野球に取り組む姿勢は誰もが認めていました。

 そんな小久保監督を語るにあたって、外せないエピソードが「入団1年目でチームのルールを変えた」ことです。

 1993年に青学大からドラフト2位でダイエー(現ソフトバンク)に入団し、94年に初めて春季キャンプに参加していた時期です。

 当時、ホテルの夕食の時間は、遅くても20時前後まで。小久保はルーキーの時から練習量がずばぬけて多く、しかもあの頃は夜間練習が夜の19時からあった。

 練習が終わってホテルに戻り、シャワーを浴びたらすぐに夜間練習の時間です。食事を取る時間がなく、夜間練習が終わった頃にはもう食事会場は片づけられている。そこで小久保は「夜間練習後に夕食を食べられるようにしてくれませんか」と、球団に直談判。交渉の末、夕食は21時ごろまでとなった。

 いくら大卒選手とはいえ、そこはルーキー。普通なら「仕方ない」とか「練習を早めに切り上げてメシを食うしかないか」と思うはずで、球団に物申すなんて考えられません。しかし、そこが「小久保が小久保たるゆえん」でしょう。

 影響力も強く、後輩の井口資仁とオールスターに出場した時です。

 球宴の翌日は全体練習が休み。そのため、ほとんどの選手は球場から荷物出しをします。

 そんな時、井口が「田尻さん、小久保さん……バット持ってました?」と聞いてくる。僕が「持ってたよ」と言うと、井口は「マジっすか……。じゃあ明日は練習ですね」と苦笑い。バットを配送せず、持って帰ったということは、翌日も練習する気満々ということです。本来なら井口も休みたかっただろうけど、野手のリーダーである小久保が練習をするのだから、誰も休めない。休日のはずが、野手は全員練習日になってしまった(笑)。

 ケガに対する意識も非常に強かった。僕の息子も野球をやっていて、剥離骨折をしたことを小久保に言うと、「田尻さん、剥離骨折は骨折じゃないから。痛みを我慢すればプレーできますから」といったあんばい(笑)。さすがに首を痛めた時は休養となりましたが……。

 これはおそらく、先輩で後に監督も務めた秋山幸二さんの影響も大きいでしょう。西武時代は「レギュラーが休むなんてありえない」という雰囲気があったらしく、秋山さんが腰痛でトレーナー室にいたら、石毛宏典さんが入ってきて、ぼそっとひと言、「休まないよな?」と言われたとか。そんな話を小久保も秋山さんから聞いていたのでしょう。

 自分に厳しい小久保でしたが、他人にも厳しい。チームのためには平気で悪役になれるタイプです。全力疾走しなかった若手を試合後、ベンチ裏に呼んで、「おまえ、なんで全力で走らなかったんだ?」と説教する姿を見たこともあります。小久保としても言いたくはなかったのでしょうけど、チームのために誰かが言わなくてはいけない。その役目を買って出た。

 僕は86年に南海(現ソフトバンク)に入団。現役引退後は打撃投手や広報、マネジャーなどをし、昨年までホークスのお世話になっていました。この連載ではソフトバンクからダイエー、そして南海とさまざまなホークスの選手たちの話をしていこうと思っています。次回は指導者としての小久保監督の素顔についてお話しします。

(田尻一郎/元ソフトバンクホークス広報)

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