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詩人・歌手・俳優の三上寛さん「故郷の津軽に現代詩を専門に教える大学をつくりたいなぁ」【死ぬまでにやりたいこれだけのこと】

日刊ゲンダイDIGITAL / 2024年11月18日 9時26分

詩人・歌手・俳優の三上寛さん「故郷の津軽に現代詩を専門に教える大学をつくりたいなぁ」【死ぬまでにやりたいこれだけのこと】

三上寛さん(C)Norio ROKUKAWA / office La Strada

【死ぬまでにやりたいこれだけのこと】

 三上寛さん(詩人・歌手・俳優/74歳)

  ◇  ◇  ◇

「最もラジカルなフォークシンガー」「個性派俳優」「詩人」「異端の怨歌フォーク歌手」──。多種多様な「顔」を持つ男の数奇な人生は「奇跡的な出会い」によっても彩られている。18歳で故郷・青森を飛び出して誰と出会い、どうやって「心の奥底から湧き上がる思いを言葉にして吐き出してきた」のか? 74年の人生をたどりながら「死ぬまでにやりたいこと」を聞いた。

 生まれは東北の小さな漁村(北津軽郡小泊村=現・同郡中泊町)だし、楽器屋もレコード屋もなかったなぁ。

 ギターとの出会いは遅くなかった。中学2年の初夏。近所を歩いていたら、同級生の正人が窓辺に座り、ギター(の開放弦)を「ピーン」と爪弾いた。その音色を聞いた衝撃たるや! オレのギター人生の原点だね。

 小学4年の時、泉谷明先生が国立の弘前大を卒業して赴任してきた。先生は「モヒカン先生」として有名だった。あの時代の津軽でモヒカンですよ。周囲はびっくり仰天です。でも、オレは違った。先生が詩を創作していると聞いて「東京に行ってモヒカン刈りにして詩人になる!」と決めていた。このモヒカン刈りが、オレが歌い手になる糸口になりました。

 高校は50キロほど離れた五所川原高に進み、下宿生活が始まった。独学でギターを覚え、その頃はボブ・ディランに傾倒……って言いたいところですが、小林旭やグループサウンズをやってました。

■明けても暮れても寺山修司

 高校2年、修学旅行先の京都で「寺山修司」と出会った。土産物店が立ち並ぶ新京極を歩いていると「家出のすすめ」という本が目に入り、一気にはまりましたね。著者が、同じ青森県人というのも衝撃的でした。

 それから明けても暮れても寺山修司。ひたすら詩作に没頭し、生徒会長の職権を乱用して謄写版を無断で使い、ガリ版刷りの詩集「白い彫刻」を出した。これが「鶴見の智子さん」との出会いを仲立ちし、そこから本物の寺山修司との関係がつながることになった。

 神奈川・鶴見女子短大に進学した高校の先輩が同級生4、5人と太宰治の生家(青森・金木町)を訪れた際、偶然にも初詩集を読んでくれた。

 翌年の夏休み、彼女たちが再び津軽までやって来て「寺山修司を尊敬している詩集の作者」に会いに来てくれたんだ。

 そこで(中川)智子さんに「秋の学園祭に寺山修司さんが来てくれるから、アナタの詩集を渡してあげる」と言われた。

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