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【コラム】タイ人に愛された日本兵:第4回(全7回)〜日本兵の生活と住民との交流

Global News Asia / 2022年8月12日 11時0分

「わたしは クンユアムの娘 どこにも 行けない
 クンユアムの娘 クンユアムの娘
 残る私は クンユアムの娘」
(中略)

戦時の前後を含む5年ほどの間は、彼らや自分たちの区別なく、人々は友達や親戚どうしのように助け合った。多くの人が亡くなったが、村人たちの心のなかには、まだ日本の兵士たちのことがはっきりと残っている。

 パーンさんは、当時自分の家に宿泊していた日本兵それぞれの特徴や性格、何が好きで何がきらいだったかを覚えている。名前も、全員ではないが覚えている。
たとえば、
 サカモト ハヤカワ ハタクラ ムラカマ イナジョウ
などである。兵士たちは、東京と大阪の出身であったという。(中略)

 パーンさんは、家の近くのムアイトー寺院内にあった日本兵の野戦病院でお菓子と果物を売ったことがあった。病院には病気や怪我の兵士がたくさんおり、それぞれが重症だった。パーンさんが持っていったお菓子は、米とゴマとサトウキビの汁をまぜたものだった。日本の兵士たちは「モチ」と呼んで、とても喜んだ。家に泊まっていた日本兵たちは、小麦粉を練って薄く延ばし、緑豆でつくった餡を包み、蒸したお菓子をつくっていた。もしあればココナッツを削ったものも包んでいた。果物は、ナムワーバナナやその他のバナナに人気があった。(中略)細かく刻んだタバコの葉もよく売れた。その他、卵やイモ類など、食料はなんでもよく売れたという。

 悲しいこともあった。傷ついた日本兵のなかには、財産が着ている服だけ、という者もいた。ビルマからクンユアム郡に逃げてきた兵士は、ほとんどがそのような状態だった。武器やその他のものは、売ったり、食料と交換してなくなってしまっていた。(中略)ほんの少し前まで力を持っていたのに、日本兵がこんな姿にまで落ちてしまうなんて、誰が想像できただろう。(中略)

 もうひとつ、忘れられないことは、日本兵がクンユアム郡に来て2年目の1943年のこと。11月のオークパンサーの日だった。技術者の日本兵で18歳か19歳くらいの、まだ位のない「オリ」という名前の兵士が、ある家の前にある木の下でピストル自殺をした。ここは現在のクンユアム郡の発電所の前にあたる。自分のピストルで頭を撃っていた。友人の兵士たちは「グム寺院」に死体を運び、タイ式に遺体に水をかける儀式を行った。遺体を白い布で包み、机の上に寝かせ、右手だけを出して、そこに友人の兵士や村人たちが水をかけた。パーンさんはこの兵士をよく知っていたので、この儀式に参加した。儀式のあとは、白い布に包まれたままの遺体を担架に乗せて、「グム寺院」の隣の「カムナイ寺院」の裏の池の近くに埋めた。埋めた場所には墓標を立て、日本語で名前を書いた(その後何十年もたって、日本から遺骨収集の担当者が来たときに儀式を行い、遺骨を日本に持ち帰った)。(中略)

第5回「悲劇に終わったメナムの残照の現実:前編」へつづく

本コラムは、故チューチャイ・チョムタワット氏の遺志を後世に伝えるべく書かせてもらっており、過去や現在の戦争行為を賛美したり美化しようとするものではないことを明記させていただく。
【編集 : そむちゃい吉田】


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