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「非常識の延長戦上にあった」世界一…ミュンヘン五輪男子バレー金メダルの奇跡<5>

スポーツ報知 / 2024年7月30日 12時0分

1972年9月11日 ミュンヘン五輪男子バレーで優勝して胴上げされる松平康隆監督

▽決勝  日本3(11―15、15―2、5―10、15―10)1東ドイツ

 パリ五輪で世界ランク2位の男子バレー日本代表は石川祐希、高橋藍ら充実戦力を有して金メダル獲得に挑む。日本が五輪の頂点に立てば1972年ミュンヘン五輪以来52年ぶりとなる。松平康隆監督が率いた半世紀以上前の日本代表の“秘話”を、スポーツ報知が「あの時」と題して2016年に掲載した連載を再録する。(全5回の第5回)

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 ミュンヘンの会場は、東ドイツを相手にしても、ニッポンコールに包まれていた。72年9月9日、決勝の舞台はまるで、ホームのようだった。周到な準備をしていた。当時は弱小チームだった西ドイツ代表監督に松平の大学の後輩、加藤明が就き、日本のコンビバレーを教えた。五輪の数年前から1年に1度は、ミュンヘン近辺で、日本と西ドイツの親善試合を行い、日本のファンを増やしていたのだ。

 日本は第1セットを失ったが、慌てることはなかった。東ドイツのデータは、徹底的に分析していたからだ。当時、東ドイツとは国交がなく、日本に招くことも困難だった。だが、東ドイツと決勝で対戦することを想定した松平はどうしても、事前に試合をして相手のことを知りたかった。

 そんな時、東ドイツの展覧会があることを知り、「この関係者と一緒にバレーチームを来日させよう」と、その主催者を訪ね、承諾を得た。さらに、国交がないため、外相にアポなしで直談判。来日時の扱いなどで、OKを取り付け、試合は様々な角度から録画し、研究し尽くした。第2セットをわずか2点に抑えて取ると、金メダルポイントに向かって、進むだけだった。

 小柄な松平は、大男たちの手によって、何度も大きく宙を舞った。痛みが悪化し、自転車のチューブを腰に巻いてプレーした横田は、泣いていた。「人間的にも成長しないと、五輪で優勝できない。スポーツバカではだめだと、松平さんに教えられてきた。それは実感としてあった」と大古は当時を振り返った。

 海外遠征では、選手たちはその国のことを勉強して発表した。ガイドブックもあまりない時代に図書館や大使館を回って調べた。その民族性を知ることによって、相手国の特徴も分かるようになった。「ありがとう」「こんにちは」。その国の言葉も覚えた。「バレーを通じ、勉強したことは自分のその後の人生にもプラスになった。世界一の経験者として、心構え、目標の持ち方などを伝えていかなきゃならない」と現在、日本協会会長の木村。

 66年、松平は小学5年生の長男を不慮の事故で亡くした。長男がボール紙で作った筆箱には、メインポールに日の丸が描かれていた。長男の死後、「常識の延長戦上に勝利はない。非常識の延長線上にしか世界一はない」と突っ走り、長男の夢も実現した。松平が慶大時代につけていた背番号が書かれた布は、今はその筆箱の中に大事にしまわれ、自宅の仏壇の引き出しに眠っている。(久浦 真一)=敬称略、おわり=

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