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「人が押す鉄道」はなぜ生まれ、なぜ消えていったのか 豆相人車鉄道の歴史

ITmedia ビジネスオンライン / 2024年12月27日 8時10分

 一方で、下り坂に差し掛かると車夫は、車両の前後に付いたステップに飛び乗り、ブレーキをかけながら駆け下った。貧弱なレール上で、車幅の割に背が高くてバランスの悪いこの乗り物をスピードが出た状態で操車するのは難しく、脱線・転覆事故も起きた。

 興味を引かれたのは、内田さんに見せてもらった1等車(上等車)の写真である。車体側面には、「上等」の文字とともに「FIRST」という英字も併記されている。1等車は外国人の利用が多かったためであろう。また、車内をよく見ると、「西陣織ではないか」(内田さん)という豪華な織物で壁が飾られている。建設費が安上がりという理由から採用された人車であったが、さすがに1等車にはお金をかけていたようだ。

 【編集部より:書籍『かながわ鉄道廃線紀行』では、続いて筆者が、小田原から熱海まで人車・軽便鉄道がどのようなルートを走っていたのか、実際に踏査しています。】

●筆者プロフィール:森川 天喜(もりかわ あき)

旅行・鉄道作家、ジャーナリスト。

現在、神奈川県観光協会理事、鎌倉ペンクラブ会員。旅行、鉄道、ホテル、都市開発など幅広いジャンルの取材記事を雑誌、オンライン問わず寄稿。メディア出演、連載多数。近著に『湘南モノレール50年の軌跡』(2023年5月 神奈川新聞社刊)、『かながわ鉄道廃線紀行』(2024年10月 神奈川新聞社刊)など。

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