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[瀬尾温知]【手塚治虫がアニメ製作を決意した日】~戦時下のプロパガンダ映画の秘密 2~

Japan In-depth / 2015年8月18日 11時0分

[瀬尾温知]【手塚治虫がアニメ製作を決意した日】~戦時下のプロパガンダ映画の秘密 2~

日本初の長編アニメーション映画(モノクロ、スタンダード35㎜、74分)は、日本が戦争に敗れ、GHQ・連合国総司令部によって没収ないし焼却されたか、爆撃によって焼かれてしまったと考えられていた。そのことから幻の傑作アニメと言い伝えられていた。瀬尾光世監督も「スタジオが5月27日に爆撃で焼かれ、自宅も焼かれたので資料も残ってない。フィルムがあるとは考えてなかった」と、存在を信じていなかった。

それが終戦から約40年後の1984年に、国立近代美術館フィルムセンターなどの努力によって、松竹大船の倉庫でネガが発掘された。その3年後にはテレビで映画を放送し、瀬尾光世と手塚治虫を招いて、映画評論家の荻昌弘による司会で対談がもたれた。

手塚治虫は公開初日のことを対談で語っている。「映画館の周りは焼け野原になっていて、都会には子どもがいませんでした。映画の中に描かれているものと周辺が違いすぎるので、『これは嘘だ』という感じがしました。内容的なものですよ。私が感動したのは別のことで、『よくぞこれが日本で出来たな。これで日本人はアメリカの漫画界に負けん』という、うれしさがあった」と、まるで昨日観た映画に感動しているかのように話していた。

封切り当時20歳だった手塚治虫は、どうにも観たくてたまらなく、勤労動員として働いていた工場を休んで大阪の松竹座へ向かった。「全編に溢れた叙情性と童心が、希望も夢も消えてミイラのようになってしまったぼくの心を、暖かい光で照らしてくれた」(手塚治虫エッセイ集1より)。焼け残った松竹座の客席で感激の涙を流し、「おれは漫画映画をつくるぞ。この感激を子どもたちに伝えてやる」と誓った。エンターテイメントに込められた夢と希望のメッセージに心を打たれ、いつか自分の手でアニメを作りたいと決意するきっかけとなった映画だった。

気になるこの映画のアメリカ側の反応は、手塚治虫がその対談の中で話している。「映画がビデオ(※1)になって、アメリカに渡ったんです。それをアメリカの映画評論家が見ましてね、アメリカの映画雑誌に評論を書いたんです。それを読むとですね、『内容的にはアナクロだ。しかし、この技術は、その当時アメリカ人が見たらびっくりしただろう』そういうことを書かれているんです。今のアメリカ人が見て、40年前とは思えない、とびっくりしているんです」。アメリカが日本のアニメの技術を認めていたと、興奮気味に話していた。このときの対談では元気な姿を見せていた手塚治虫は、その2年後、胃癌で亡くなった。60歳だった。瀬尾光世は長生きし、2010年、98歳で他界した。

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