[嶌信彦]【満州引き揚げ者の記念館運営する舞鶴市】~本の出版が縁で市と交流~
Japan In-depth / 2015年12月22日 18時0分
先日、京都府舞鶴市の教育委員会の小谷裕司さんという方が私の事務所に訪ねてこられた。舞鶴といえば、敗戦後の昭和20年から13年間にわたって66万人の人々が外地から引き揚げてきた日本海側にある港町である。戦争中に満州やシベリアに抑留された一般の人や軍人などが帰国船で最初に日本の地を踏んだ場所である。いまや舞鶴の地名に郷愁を感じたり、思いを持つ人はほとんどいなくなってしまったようだが、昭和20年代は舞鶴に外地から引揚船が着くたびに大きなニュースになり、その引揚者の中に自分の身内がいないかと必死になって出迎え、探した物語がいくつも語り継がれている。有名な「岸壁の母」は、息子の帰りを岸壁に佇んで毎日待ちわびる母親の心境を歌ったもので、戦後の大流行歌ともなった。
小谷さんが私のところに来られたのは、私が9月下旬に出版したノンフィクション「日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた」(角川書店)を目にしたからだという。私はその本の最終章にオペラハウスを見事完成させて、日本に帰国してきた何人かの情景を描いた。抑留者たちは長い抑留生活の中で”ダモイ(帰国)”だけを夢にみて長く苦しい試練に耐えてきた。その人たちが日本に近づいた船から見た最初の日本の陸地が緑豊かな舞鶴港だったのだ。舞鶴港が近づくと抑留者たちは、みんなデッキの上にあがって「日本だ、日本だ」と声をあげて涙を流した。厳しく過酷で、悲惨でもあったシベリアなどの抑留生活からやっと解放されて日本の大地が見え始めた時、初めて夢ではなく帰国が実現になったことを実感してみんなとめどもなく涙を流したのだ。海岸の松林、緑の山並み、着物姿で手を振る舞鶴の日本人、遠くからかすかに聞こえる大勢の人の「お帰りなさい」の声にみんな我を忘れてデッキにしがみついたという。
その舞鶴で抑留者達を迎えたのが舞鶴地方引揚援護局の人々で、昭和33年に閉局するまでに約66万人の受け入れとその手続きを行なったという。閉局されると、ポツリポツリと訪れる人もいたが、いつしか忘れ去られ「舞鶴」の名は歴史の中でしか語られなくなる。
しかし、舞鶴市は単に受け入れの場所を提供しただけでなく、日本の歴史に残る場所として記憶に留めてもらおうと昭和45年に引揚の桟橋を望む丘に引揚記念公園を開設。昭和60年には「海外引揚40周年記念式典」を開催し、「引揚港”まいづる”を偲ぶ全国の集い」を開催して内外から7000万円の寄付と関係資料を収集。その後63年には舞鶴記念館を開館し、引揚者の衣類や生活用品、絵画など約1万2000点を集め、今年10月にユネスコの世界記録遺産となって「舞鶴への生還」の登録が決定したのである。
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