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「勝つのが仕事」先駆者が語る(上)プロ野球選手のセカンドキャリア その5 

Japan In-depth / 2016年2月18日 18時0分

「勝つのが仕事」先駆者が語る(上)プロ野球選手のセカンドキャリア その5 


神津伸子(ジャーナリスト・元産経新聞記者)


「10円玉1枚で首になった」

豪快に笑うのは元巨人軍選手、コーチだった阿野鉱二(67)。

言い回しが、実に昭和の男を良く表している。公衆電話の1通話が10円だった時代だった。所属する球団からの解雇の電話を、こう的確に言ってのけた。

セカンドキャリアという言葉も、まだ使われていなかった当時。

が、いつの世も現役生活を終えたプロスポーツ選手のその後は、決して楽なものではない。

阿野は22年間のプロ生活の後、ビジネスの世界に転身。

運命の電話から3日後、元大洋ホエールズ(現・Dena)の松原誠の紹介で、建築業界に打って出た。高層建築などの鉄鋼構造物の床版を扱う企業に就職したのだった。1からビジネスを修行し、2000年に独立し年商12億、翌年にはスチールエンジ株式会社を創業、代表取締役となった。現在、年商80億。業界NO.1の地位を誇る。現在は会長職を経て、相談役。

現役時代に怪我や大病で、悩まされた分も、阿野のセカンドキャリアは、今も大輪の花を咲かせ続けて、留まるところを知らない。

−白いユニフォームが原点

大阪出身の阿野が野球を始めたのは小学生の時。「当時は自分よりうまい選手が一人だけいた」。中学でも野球部に入部。母親に買ってもらった「真っ白なユニフォームを手にした時の感激が忘れられない。巨人のユニフォームに腕を通した時よりも、鮮明だ」。

その後は、今や進学校として名を馳せる明星高校に1963年進学、1年生からレギュラー、その夏には甲子園で優勝、翌年も出場を果たしている。引退後は受験勉強に取り組み、早稲田大学進学を果たす。野球部の同期には谷沢健一(元中日・現野球解説者)らがいた。リーグ優勝2回、3年生では打率4割4厘を記録、キャッチャーとしてベストナインも受賞。

ドラフト会議で2位で巨人に指名された。1976年までの7年間、現役選手として、91年までコーチとして活躍。栄光のV9時代に名前を連ね、森祇晶の後継者と目された。が、1972年広島戦でブロックの時、膝の亜脱臼、75年にはベロビーチキャンプ中にひどい腹膜炎を起こし「九死に一生を得た」。復帰後も、代打出場に頭にデッドボールを受け亀裂骨折、さらにはA型肝炎など次々と身に降りかかって来た。この間にも、家が全焼するなど、実に苦しい時代が続いた。



7年間の現役生活後、そのまま球団にとどまり、トレーニングコーチの先駆けとなった。アメリカUCLAに通い、プロ選手のためのストレッチ体操やウエイトトレーニングを研究・現場で実践した。この頃から、常に新しいものに前向きに取り組む姿勢は変わらなかった。

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