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「正義のため」という危険な考え ネオ階級社会と時代劇その3

Japan In-depth / 2016年5月23日 18時0分

「正義のため」という危険な考え ネオ階級社会と時代劇その3

林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

 広島の原爆ドームを見学したアメリカ人から、こんな感想を聞かされたことがある。「恐ろしいと言うより、悲しかった。人間が人間に対して、こんなことをしてしまったのか、と」

 前回、人間も動物であり、闘争本能や征服欲を備えているので、それがしばしば、闘争や戦闘を娯楽にしてしまう心理に繋がるのだ、と述べた。だからと言って、時代劇のチャンバラに熱狂する人が、現実に刃物を振り回すかと言えば、それはまったく違う。

 人間も動物であるからこそ、生存本能と共に、種を保存しようとする本能を備えている。だからこそ、同じ人間を殺すことには、強い心理的抵抗を感じるものなのだ。

ならばなぜ、戦争や殺人がなくならないのか。急に話が大きくなってしまったようだが、この問題を少し考えてみよう。人の命を奪うことに対する心理的抵抗がなくなる理由が、大別して5通り考えられる。

(1) 恐怖

(2) 憎悪

(3) 利得

(4) 偶発的な事態

(5) 正義感

 である。(1)(2)(3)については、あまり多くを語るまでもないだろう。まず恐怖だが、相手を殺さなければ自分が殺される、という極限状況に陥ったなら、どうか。従容として命を差し出せる人は、そう多くあるまい。

次に憎悪だが、これも話は簡単である。身内の仇とか主君の仇とか、要するに、殺しても飽き足らない、というほど憎い相手に対しては抑制が効きにくい。心理的抵抗よりも、その後の刑罰や社会的制裁の方が、殺人という行為に対する抑止効果を持つかも知れない。

これを延長して考えると、利得も立派な殺人の動機になり得る。保険金殺人が典型だが、殺人の結果、一生まともに働いても手に入らないカネを得られるとなったら、道を誤る人間は結構いる。

偶発的な事態というのは、いささか分かりにくいかも知れないが、現実の犯罪では結構多い。はじめから殺意があったわけではないが、コソ泥に入ったつもりが家人と鉢合わせしたとか、女の子にいたずらしようとしたら騒がれたとか、結果的に殺人事件になってしまうケースである。

そして、本稿で問題にしたいのが、最後の正義感だ。歴史上、正義感のせいで奪われた命がもっとも多い。戦争は大量殺人以外のなにものでもなく、あらゆる戦争が正義の名のもとに戦われたことを考えてみればよい。

「2人殺せば死刑だが、100万人殺せば英雄になれる」というのも、本当は数の問題だけではなく、人の命を奪うことを正当化する,正義という名目がそこにあるか否かの差ではないだろうか。

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