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「正義のため」という危険な考え ネオ階級社会と時代劇その3

Japan In-depth / 2016年5月23日 18時0分

このように述べると、読者の中には、いや自分はそのような人間ではない、と考える向きもあるやも知れない。正義のためなどと言われて、殺人に手を染めたりはしない、と。本当に、そう言い切れるであろうか。

別に時代劇でなくとも、ドラマや映画で「正義の味方」が「悪い奴ら」をなぎ倒す時、貴方は快感を覚えないだろうか。実はこれこそ、正義感の正体であり、その怖さであると私は考える。彼らの行為は、死を持って償わねばならないほど悪い事なのかとか、悪人にだって死んだら嘆き悲しむ家族がいるのではないかとか、普通は考えないものだ。「悪い奴」が殴られたり斬られたりするのを見て快感を覚えるのは、自分は正義の側に立っている、という思い込みと表裏一体である。これが怖い。

 アメリカの共和党大統領候補になりそうなトランプ氏は、IS(イスラム国)との戦いにおいては戦術核を用いることもあり得る、と明言した。この発言に喝采を送った人たちは、ISが悪で自分たちが正義である以上、手段を選ばずともよい、と考えているのだろう。宗教的正義であれ愛国心であれ、それが大量殺人をも肯定する論理になった時点で、彼らトランプ支持者はISと同列の集団に身を堕としたのだということに、なぜ気づかないだろうか。

それじゃお前は、どうして戦争をエンターテインメントとして描いたのか、と問われるかも知れない。答えは、前回と同じで、お読みいただければ分かる、ということだ。

古来、殺人を扱った小説には名作が多い、と言われる。人間は互いに殺し合う哀しい生き物であり、時として、正義のためならば人の命を奪ってもよいとまで考える、愚かな生き物なのだ。そうした人間の愚かさや哀しさに向き合うのが作家の仕事である。

だから、時代劇でも西部劇でもよいが、架空の世界で殺し合いがエンターテインメントになろうが、そのこと自体を問題視するべきではない。ただし、架空の正義派に同調して、安易に「自分は正義の側にいる」などと思い込むのは危険極まりない。

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