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日本にあった「暗殺への抑止力」 暗殺の世界史入門その4

Japan In-depth / 2017年3月17日 7時15分

鎌倉幕府という、天皇家を中心とする貴族社会から相対的に自立した武士の権力基盤を固めようとした矢先という、あまりと言えばあまりなタイミングでの急死だったからである。

頼朝の嫡子・家頼は、この時点で18歳になっており、当時の感覚では立派な成人ではあったものの、父親の政治的才能も、叔父(源義経)の軍事的才能も受け継いでいなかったと見えて、早い段階から、彼が統領では武士階級もまとまらないだろう、と考えられていたという。

実際に彼は、征夷大将軍となって二代目を継ぐが、北条氏をはじめとする有力な御家人(鎌倉幕府を支えた家臣団)によって権力を奪われ、最期は伊豆に幽閉されてしまう。さらには、父と同様に謎の多い最期を遂げるが、こちらは間違いなく暗殺だとされている。

三代将軍は、歌人として名高い源実朝で、頼朝と北条政子との間に産まれた次男であるが、彼もまた政治的才能にはまったく恵まれていなかった。しかも、

「将軍になったら、きっと殺される」

という恐怖心にとりつかれていた形跡があるとされ、もしもこれが本当なら、当時の武士の間で「頼朝暗殺説」が広く信じられていたことの、有力な状況証拠になると言えよう。

しかも、その実朝は1219年、頼家の次男で出家していた公暁により、こともあろうに源氏の守り神である鎌倉八幡宮を参拝中に「父の仇」として刺殺されてしまう。これまた北条氏が裏で糸を引いたのか、真相はまったく分からないが、将軍の命を狙う「テロリスト」が大銀杏の木の陰に隠れていて、それが成功したということは、警備体制がろくなものでなかったとことは事実のようだ。余談だが、この「公暁隠れの銀杏の木」は、2010年に暴風で倒壊した。

 

■鎌倉時代以降、「暗殺」が当たり前に

ともあれ鎌倉時代以降、権力争いに暗殺という手段が持ち込まれることが、どんどん当たり前になって行く。

日本はすでにこの時代、グローバル・スタンダードに合流していた……というのは冗談だが、大きな理由として考えられるのは、鎌倉時代にいわゆる新仏教が台頭して、人々が怨霊を信じなくなったことであろう。

平安時代までの仏教は、基本的に貴族階級の知的な趣味の域を出ておらず、怨霊といった原始シャーマニズムと、理論的に対決するようなことはしなかった。

しかし、鎌倉時代になって武士や一般民衆の間でも知的活動が盛んになったことを背景に、「人間はどうすれば救われるか」

「死の恐怖はいかにして克服し得るか」

といった命題に取り組む新仏教が、多くの信者を獲得するようになった。

殴られた痛みは殴った方には分からない、とよく言われるが、人間は必ず死ぬもので、怨霊になってこの世にとどまることなどない、という「悟りの境地」に達した人間は、人の命を奪うことに対しても、しばしば無頓着になる。

新仏教が世の中を血生臭くした、などと言うつもりはないが、怨霊が信じられていたことが、暗殺が横行する事態に対し、一定の抑止力になっていたことは事実で、これも日本史の一面であると、私は考えざるを得ない。

宗教心と暗殺やテロリズムの関係については、次回以降、考察することにしよう。

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