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イ・スンマン登場 金王朝解体新書 その2

Japan In-depth / 2017年5月3日 12時5分

イ・スンマン登場 金王朝解体新書 その2

林信吾(作家・ジャーナリスト)

「林信吾の西方見聞録」

【まとめ】

・朝鮮半島南にカリスマ的指導者、イ・スンマン登場。

・1945年米英ソによるモスクワ協定成立

・1948年、韓国独立、北朝鮮樹立さる。

 

■イ・スンマン(李承晩)の登場

日本の敗戦により、朝鮮半島の植民地支配に終止符が打たれたのは、1945年8月15日のことであるが、大韓民国(以下、韓国)の建国記念日は、ちょうど3年後の1948年8月15日と定められている。この3年間になにが起きていたかを見て行くと、その後の朝鮮半島がたどった悲劇的な運命は、ふたつの国それぞれの成立過程に、すでにその萌芽があったことが理解できよう。

まず、ソ連が占領した半島北部(北緯38度線以北)については、キム・イルソンと名乗る人物を「救国の英雄」と祭り上げ、東欧と同様の衛星国に仕立て上げたことは、前回述べた。

一方、南でもカリスマ的指導者が登場した。イ・スンマン(李承晩)である。李氏朝鮮王朝の外戚という名家の出身だが、その血筋ゆえに、若い頃には王位継承権をめぐる陰謀に荷担したとの嫌疑を受け、投獄されたこともある。まるで韓流ドラマだが、それが当時の朝鮮の全てではなかった。

19世紀末になると、かの地にも西洋文明の波が押し寄せ、1875年生まれのイ・スンマン青年は、米国人宣教師が設立したミッション・スクールで学び、洗礼も受けた。韓国は今に至るも、アジアの中ではキリスト教人口が多い国である。その後、米国プリンストン大学を卒業し、1910年に帰国したが、この年に日韓併合となって、彼は祖国を失う。

1912年、米国で開催されたメソジスト派の国際会議に出席するという名目で出国し、そのまま亡命。米国内における朝鮮独立運動の中心人物となるが、日本の敗戦にともなって、再び祖国の土を踏むことができたのは、実に33年後、70歳の時である。ともあれ、米軍機で帰国を果たしたイ・スンマンは、コンボク(光復=独立運動)の英雄として熱狂的な歓迎を受け、様々な政党が彼を党首に迎えたがった。しかしながら、ただちに朝鮮半島の南北それぞれに新国家が誕生したわけではない。

■米英ソによる信託統治の目論見

1945年の暮れ、米英ソの外相がモスクワに集まり、朝鮮半島について、中華民国を加えた4カ国で5年間を期限とした信託統治を行いつつ、その間に憲法制定や総選挙などの作業を経て、平和的に独立を達成しようという協定が、一度はまとまった。

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