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平和賞に女性の影あり? ノーベル賞の都市伝説3   

Japan In-depth / 2017年12月11日 11時47分

 

 ノーベルは正規の高等教育を受けていないが、スウェーデンで一度は破産した父親が、帝政ロシアの軍需産業に食い込んで再起し財をなしたため、サンクトペテルブルクで複数の家庭教師がつく生活を送ることができ、その結果、母国語であるスウェーデン語に加えて、英仏独露の計5カ国語で流暢に会話ができるまでになっていたという。反面、学校生活を経験していない分、人と接するのが苦手な人物になったようだ。

 

 しかし、ベルタがノーベルのそばにいたのは、わずか数週間に過ぎなかった。かねて恋仲でありながら、結婚に反対されていた(彼女の方が7歳年上であったため)、アルトール・フォン・ズットナーという青年貴族の存在と、秘書募集の公告が実は「婚活」であったことに憤慨した、二重の理由であったと見る向きが多い。結局彼女は、ノーベルの元を去る直前、ズットナーと結婚した。

 

 しかしその後も、ノーベルは彼女に幾度も手紙を送っている。と言っても、彼女の反戦運動や著作活動に対する激励の文面がほとんどだった。このような、ベルタの反戦運動に対するシンパシーが、平和賞創設の動機だと見る向きも多いわけだが、当然ながら異説もある。

 

 前回、ノーベル賞の選考と授与は、主にスウェーデンの研究機関が行っていることを紹介したが、平和賞だけはノルウェーから授与されることになっている。

 

 これは、ノルウェーの歴史と関わりが深い話で、12世紀以降、王位継承を巡る内戦や、黒死病で王家の血筋が途絶える、といった不幸に見舞われ続けた同国は、1536年以降、デンマークの支配下に置かれていた。

 

 その後、デンマークがナポレオンの傘下に入り、これまた前述のウィーン会議を経て、1814年、スウェーデン国王がノルウェー王を兼ねる「同君連合」が形成されたのである。つまり、アルフレッド・ノーベルが平和賞の創設を遺言した時点で、ノルウェーは外交権を持つ独立国ではなかった。

 だからこそ、平和賞の選定に際して政治的な思惑が働く余地が少ないだろう、というノーベルなりの深慮遠謀であった、と見る向きと、スウェーデンとノルウェーの和解を促すべく、ノーベル賞の一部門だけ選定と授与をノルウェーに任せた、と見る向きがあるわけだが、ここまで来ると、故人の心の内までは分からない、としか言いようがない。

 

 ベルタが挺身した平和運動は、第一次大戦後の国際連盟設立ですっかり影が薄くなってしまったことと、ノーベル平和賞はその性格から、受賞に対する異論が多い、という事実のみ、あらためて報告させていただこう。

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