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体罰・パワハラについての一考察

Japan In-depth / 2018年5月25日 15時0分

 

野暮なことをいうようですが、結局のところいくら信頼関係があると指導者側が思っていても、体罰を受けた側が信頼していなかったと言えばそれでおしまいです。あんなに信じてくれていたじゃないかといくら指導者が主張しても、高圧的で言いだせませんでしたと生徒が言ってしまえばおしまいです。そもそも人間はどこまでいっても他人の心の中はわかりません。

 

また、信頼関係があったから双方が納得したからとしても、体罰を行なっていいとは私は思いません。臓器売買は双方の合意があればどちらにもメリットがある(表面的には)がありますが、それを踏まえても禁止されています。そのように双方の合意があろうとも、社会的に許されないとされていることはあるとおもいます。

 

人は人を矯正することができるのかですが、私はできないと思っています。振る舞いは矯正できますが、内面を変えることは難しいのではないでしょうか。私は人の成長はその人によってなされ、教育はその後押しをするという考えです。ですから、体罰を振るおうが振るうまいが矯正できないのでそもそも意味がないと考えます。自分がそんなに立派な人生を生きていないので自信がないのかもしれませんが。

 

私は、年齢や性別、国籍で態度を変えるべきではないと考えています。もちろん幼児であればそれなりに対応は変えるべきだと思いますが、基本人は一人の人間であり、誰かの所有物ではない以上、尊敬して接するべきだと考えています。ですからせいぜい教育はその人がなろうとしている姿の支援程度ではないかと考えています。

 

子供はまだわからない、いつか分かる日がくるから、体罰を行うということも、子供がいつ大人になるのか、また必ずしも体罰に感謝するとは限らないことを考えると賛同できません。ただ成人した人たちが主に形成する世論が比較的体罰禁止に傾いているということは、いつかわかってもよかったとは思っていない人の方が多かったという見方もできると思います。

 

全ての体罰が悪いとは限らないというのは、私もそう思います。ハリウッドの映画でも上官のビンタで我に変える若い青年が出てきたりします。体罰のみならず世の中のルールで禁止された中には、必ずしも悪いとは言えないものもたくさんあると思います。

 

ですが、ルールとして例外を認めていくかというと、それは別の話だと思います。ルールはいつも融通が効きにくく、時には理不尽さも含みます。それでもそのようなルールを適用した場合と、しなかった場合を天秤にかけ、メリットがある方を私たちは選んできました。体罰がもし個別の案件においてよしとするならば、必ずや生徒に信頼関係があったと言わせる指導者が出てくるでしょう。良い体罰、悪い体罰という余地を残せばその間で悩むのは、実は指導者であり生徒です。わかりにくいルールは現場を苦しめます。

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