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ボルトン的発想のルーツ

Japan In-depth / 2018年8月22日 19時58分

ボルトンはその後奨学金を得て名門イェール大学、同大学法科大学院へと進み、優等で卒業した後、弁護士となる。その間、ニクソン政権にあって保守理念の発信に努めた副大統領スピロ・アグニューの下でインターンを務めるなど、保守の政治圏に足場を築いていった。



▲写真 第39代副大統領スピロ・アグニュー氏 出典:Biographical Directory of the United States Congress


イェール大学の同窓にビル、ヒラリーのクリントン夫妻がいたが、所属するサークルが思想的に全く違ったため接触はなかったという。その後、政府関係の職では、まずレーガン政権の米国国際開発庁(USAID)で対外援助政策に関わっている。この時、国連や国務省における頑迷な既得権益護持の姿勢を嫌というほど味わったという。


一旦職を辞して民間の法務に戻るが、第二期レーガン政権で司法次官補に起用され、主に連邦裁判官候補の選定作業に当たった。1987年、イェール大学時代の恩師で保守派のロバート・ボークが最高裁判事に指名されたものの、上院で多数を握る民主党の猛烈な人格攻撃に晒され、承認拒否された歴史的事件(この後、人格攻撃で人事をつぶす行為を「ボークする」と呼ぶようになった)でも当事者として渦中にあった。



▲写真 ロバート・ボーク氏 出典:United States Department of Justice


ボルトンは議会の不穏な状況を察知し、機先を制した行動を説いたが、政権中枢の動きは緩慢だった。「最も重要な教訓は、敵対勢力の攻撃にホワイトハウスが完全に虚を突かれたことだ。相手の路上喧嘩屋たちは街角の殴り合いに備えた準備をしていたが、こちらは紳士的討論会を想定した準備に耽っていた」。ボルトンが常に胸に置く教訓の一つである。


民主党クリントン政権の時代は、大手保守系シンクタンクAEIに籍を置いた。続くブッシュ(子)政権で、ボルトンはまず国務次官(軍備管理・国際安全保障担当)、次いで国連大使を務め、承認人事が大いに揉めたこともあって、広く一般に名を知られるに至った。


この間、ボルトンは、大量破壊兵器拡散問題の専門家としての地位を確立していく。国務次官時代に主導した成果の一つが拡散防止構想(PSI)だった。有志諸国が連携しての密輸取り締まりが柱で、国際情報ネットワークの構築や共同訓練など現場レベルの取り組みが重視された。「PSIは組織ではない、行動だ」というのがボルトンの好む言い回しである(逆に国連は、「行動ではない、組織だ」と揶揄している)。


参加各国の軍、警察、情報機関相互の意思疎通、即応体制の整備こそが肝要で、従ってNATOやEUの代表の参加は謝絶している。それら巨大官僚機構が関与してくると、会議のための会議が増えるばかりで、即応体制が損なわれるというのがボルトンの考えであった。何かができないことの理屈探しが第2の体質と化した官僚組織に対するボルトンの不信は根強い。


国務省のような巨大組織の一員ではなく、ホワイトハウスにいて直に大統領に進言できる安保補佐官という立場は、ボルトンにとって恐らく最も望むところであろう。


トップ画像:島田洋一氏(一番左)とジョンボルトン氏(中央)©島田洋一


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