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プロレスの味方は、いたしかねます(下) スポーツの秋雑感 その4

Japan In-depth / 2018年11月1日 17時57分

 


 いずれにせよ、20世紀に入ってからは、起源はどうであれプロレスの本場と言えば米国だ、ということになっていた。20世紀初頭には、日系人のレスラーもいたことが、資料で確認できる。


 


 わが国においては、力道山がデビューした1951(昭和26)年を「プロレス元年」と定義する人が多い。戦前にも「職業レスリング」や「西洋相撲」の興行があったものの、いずれも失敗に終わったらしい。


 年配の読者の中には、力道山については私などより詳しい方もおられるだろうか。大相撲で関脇まで昇進したが、相撲界との軋轢に耐えかね(一門の内部対立が原因とも、在日コリアン差別が原因とも言われる)、大関取りを目前にして廃業。プロレスラーに転向した。


 



写真)力道山(1954年12月)


出典)Public Domain(Wikimedia Commons)


 


 1953年に日本プロレスを旗揚げして、米国から幾人ものレスラーを招聘したが、当時(元号で言うと昭和30年代)急速に普及しはじめたTV中継が大人気を博した。戦後の焼け跡から復興を果たし、高度経済成長へと向かっていた時期、二回りも大きな米国人レスラーをなぎ倒す力道山の姿は、大いなるカタルシスとなったのである。


 


 例によって余談にわたるが、彼は前述のように元力士で、空手を学んだ経験などはなく、代名詞となった「空手チョップ」も実は相撲の張り手の応用であった。もうひとつ、現在公開されているデータによれば、力道山は身長176センチ、体重116キロ。日本プロレス時代は、身長180センチとサバを読んでいたとか。


 


今では、レスラーとしてはかなり小柄な部類に入るし、相撲界にあっては完全な「小兵」だろう。しかし、当時の日本人の目には、これでも堂々たる体躯に見えたのである。力士の大型化が急速に進んだのは、1980年代以降の話だ。ただ、力道山が図抜けて頑健な肉体の持ち主であったことは事実で、その頑健さに対する過剰なまでの自信が、最後は命取りになった。


 


 1963年の暮れに赤坂のナイトクラブで、居合わせた暴力団員と、足を踏んだ踏まないのトラブルのあげくナイフで刺され、入院した。手術は成功したにもかかわらず、医師の指示を無視してすぐに暴飲暴食し、最終的にはそれが原因で亡くなった。1963年12月15日没。享年39。


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