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オリパラ基本コンセプトを改善しよう!東京都長期ビジョンを読み解く!その66

Japan In-depth / 2018年11月16日 12時0分

◇「空気」の支配で皆が委縮し「長いものにまかれろ」的な雰囲気がはびこり、自由な言論も落ち着いた対話もないではないか?



といった疑問があふれ出てしまう。


この基本コンセプトの根本的な問題は、SO WHAT?ではないかということだ。つまり、3つのコンセプトの「意味」がよくわからないのだ。五輪の関係者もわかっているのだろうか。蓮舫議員も含めて!(失礼があったら謝ります)



□はたしてオリパラが価値を提起できるか?


また、東京大学教授の吉見俊哉氏は「1960年代とは異なる価値のはずだ。その価値は何か、それはすなわち『速く、高く、強く』ではなく『愉しく、靭(しな)やかに、末長く』への転換」と主張している(「戦後と災後の間―溶融するメディアと社会」講談社新書)。


たしかに東京五輪のために、渋滞緩和のための都電廃止、交通網・首都高速道路や新幹線などの都市のインフラ整備が進んだ中に、そうした価値は見いだせなくもない。


しかし、私は「それは違う」と個人的には思う。なぜかというと、第一に、そもそも1964年の東京五輪は戦後復興、高度成長の牽引となったイベントであり、世界にそのことを示すものであり、あからさまにナショナリズムが発露されたものであると思うからだ。


第二に、五輪という単なる世界的スポーツ・イベントがその時代の価値観を提示するなんておこがましいと思うし、位相が違うと思う。1964年の大会は、競技性と経済成長の要素が重なり合ったため、五輪と時代の価値観(経済成長の)があっただけだと思うのだ。そのような価値観の共有はどこにあったのだと考えてしまう。そもそも「速く、高く、強く」という価値があったと皆が納得するのだろうか。


吉見氏の社会的な射程ではちょっと大きすぎるし、社会学的な視点の色合いが濃すぎる。



□オリパラが価値を提起できる?


ロンドン、リオデジャネイロ五輪でのサスティナビリティの取組みについては筆者が以前書いたところであるが(「何のための東京五輪?その3」)、東京五輪はこのままだと単なるスポーツ・イベントになってしまいかねない。大丈夫なのだろうか。




・復興五輪


・コンパクトな五輪


・おもてなし五輪



という「理念」では、「理念」の旗が揺らめくたびに、空虚さがそこら中に広がってしまうし、もうこんな理念を掲げているのは白けるだけだろう。


だからこそ、3つのコンセプト。これはという文章を見つけた。それはスポーツジャーナリストの玉木正之氏の考えだ。玉木氏は「すべての変化を、私は、『体育からスポーツへ』というひとつのフレーズで語ることができると考えている」「誰もが自由に、自主的に、強制されることなく、楽しむ、というのが大原則」と語る(玉木正之氏の「Camerata di Tamaki」より)。玉木氏の考えを3つのコンセプトに落とし込んでみると・・・




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