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宗教改革が宗教対立へ 悲劇の島アイルランド その1

Japan In-depth / 2019年5月28日 11時50分

 


しかし、それだけ広範囲に生きた人々の間に、民族的一体感が存在したとは考えられておらず、現代の民俗学や考古学では「ケルト系」という大雑把な定義づけがなされている。


 


サッカー元日本代表の中村俊輔が在籍していた、スコットランドの強豪クラブは,その名をセルティックと言うが、そのものずばり「ケルト人の」という意味だ。ケルティックと発音する人も多く、アイルランドの民俗楽器である竪琴はケルティック・ハープとして日本でも知られている。



 


写真)ケルティック・ハープ


出典)Flickr; Bea


 


ケルトと聞くと、アイルランドやスコットランドを思い浮かべる人が多いのは、このように、未だにケルト文化を色濃く残しているからだが、伝統的な民俗学では、ヨーロッパ大陸に広大な生活圏を持った人々を「大陸のケルト」と呼び、現在の英国で暮らしていた人々を「島のケルト」と呼ぶ。


 


ただ、遺伝子解析技術が長足の進歩を遂げた結果、大陸のケルトと島のケルトとの間には、血縁関係があるとは言い難いことが分かってきた。別の言い方をすれば、大陸のケルトの一部が海を渡ったのだろう、という従来の学説が否定されつつあるのだ。


 


ではなぜ言語的・文化的共通性があったのかという疑問が浮かぶが、おそらくは長きにわたる交易の結果であろうと、最近の研究者は考えているようだ。そもそも多神教や森の妖精伝説などは、いにしえの日本列島にもあり、そうした世界観は、近年『もののけ姫』という映画に描かれたりもしている。


 


ともあれ、島のケルトは、大陸においてローマが勃興し、やがてブリテン島南部が属領ブリタニアとなってからも、その支配を受けることはなかった。


 


この属領ブリタニアこそ、ブリテンの語源だが、もともとは、島の南部に上陸してきたローマ軍団に最初に立ち向かった、ケルト系のブリトン族から来ている。


 


つまり、ブリタニアとは正確に言えば現在のブリテン島南部のことで、北部はカレドニアと呼ばれていた。森の国、といったほどの意味であるらしい。いずれにせよローマの支配下に入らなかったことが、島のケルトが文化的独自性を保ち続けた理由である。


 


さて、紙数の関係で、ここからは少し急ぎ足で歴史をおさらいしなければならないが、ローマにおいてキリスト教が、4世紀までには国教の地位を確立したことは、よく知られている。


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