宗教改革が宗教対立へ 悲劇の島アイルランド その1
Japan In-depth / 2019年5月28日 11時50分
少し後れて5世紀には、今もアイルランドの守護聖人とされる聖パトリックによってキリスト教の伝道が始まったが、この島の人々は、まことに穏健にこの教えを受け容れた。殉教者をほとんど出さなかったのである。
写真)アイルランドにキリスト教を広めた聖人聖パトリックの命日に行われる聖パトリックの祝日の様子
出典)Pixabay;Lisa Larsen
イングランドにおいて、初代カンタベリー大司教が任命されて伝道が本格化するのは、6世紀に入ってからのことなので、キリスト教文化圏に組み込まれた歴史でも先んじたことになる。これと並行して、ブリテン島南部では「政権交代」が起きていた。
ローマの版図が、ゲルマン民族の脅威に直面したという理由で、属領ブリタニアが放棄されたのだ。409年のことである。
その後この地を支配したのはサクソン人で、いつしかローマ人に代わってブリテン島南部に進出した人たちが、アングロサクソンと呼ばれるようになった。
サクソン人もゲルマン民族の一派ではあるのだが、現在のドイツ人と同一視する人はほとんどいない。ただ、ドイツにザクセンという地名があることからも分かるように、民族の歴史にその名を留めてはいる。
この頃のブリテン島北部だが、依然として島のケルトの版図であり、彼らはアングロサクソンから「スコッツ」と呼ばれた。もともとは中国人から見た「倭人」のような、蔑視を含んだ呼び方であったらしいが、現在もここは「スコッツの土地=スコットランド」と呼ばれており、地元の人々は「我々はイギリス人ではない。スコッツだ」と胸を張っている。
こうした関係に大いなる変化が生じたのは、16世紀の宗教改革がきっかけだった。
マルチン・ルターによる宗教改革運動が始まったのは1517年のことだが、イングランドにおいては、1534年に時の国王ヘンリー8世が、自身の離婚問題も絡んで、ついにはローマ法王庁と決別してイングランド国教会を立ち上げた。
写真)マルチン・ルター
出典)Cranach Digital Archive
この動きはスコットランドにも波及し、スコットランド聖公会(国教会とも言う)を含むプロテスタントの勢力が大いに伸びた。一方アイルランドでは、カトリックの信仰を守る人が圧倒的多数であった。現在も人口の95パーセントがカトリック信者だとされる。
このようにして、宗教対立が芽生えたことが、アイルランドの歴史を悲劇に満ちたものにして行くのである。
(2に続く、全6回予定)
トップ写真)アイルランドの城
出典)Pixabay;Andreas Senftleben
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