国旗が象徴するもの 悲劇の島アイルランド その3
Japan In-depth / 2019年6月21日 18時0分
こうした構造にも変化が見えはじめたのは18世紀になってからのことだ。特に1775年にアメリカ独立戦争が始まると、その対応に追われた連合王国(1707年にイングランドとスコットランドが合邦して成立した、グレートブリテン連合王国。(以下便宜的に「ロンドンの政府」と呼ぶ)は、アイルランドに対して妥協的な態度に転じざるを得なくなった。
しかもこの時期、多くのプロテスタントが、不在地主の立場ではなく、アイルランドに移り住んで起業するようになり、自らを「アイルランドの支配階級」と考えるようになってきていたのである。
そして実際に、高額納税者となった彼らプロテスタントの商工業者は、アイルランド議会に大きな勢力を持ち、自治の拡大を要求しはじめた。
ところが1789年にフランス市民革命が勃発する。革命の波及を恐れたロンドンの政府は、アイルランドのカトリックに対して、一段と妥協的な態度をとらざるを得なくなったが、これを「支配階級」であったはずのプロテスタントから見ると、もともと人数的には多数派のカトリックの間で、「フランス革命政府と連携して、より急進的な改革を勝ち取ろう」
との機運が高まる中、政治的にまったく孤立した立場に追いやられてしまったのである。
写真)フランス革命
出典)Erich Lessing Culture and Fine Arts Archives via artsy.net
彼らは結局、自治の拡大要求から一転、連合王国との完全な一体化を望むようになるが、これこそ歴史の皮肉と言うべきだろう。
かくして1800年、ロンドンの政府の主導によって「連合法」が可決され、これを受けて翌1801年、アイルランドは正式に併合された。「グレートブリテンおよびアイルランド連合王国」が誕生したのである。
これにより、アイルランドは植民地から正式に英国の一部となったわけだが、独立の機運は一向に衰えることがなかった。
と言うのは、この連合法を成立させる過程で、ロンドンの政府は、言わば懐柔策として「カトリックの権利拡大」をうたっていたのだが、時の国王ジョージ3世が難色を示したという事情もあって、公約が反故にされていたからである。
結局、第一次世界大戦後の1919年、アイルランド独立戦争が始まり、その結果1921年に「アイルランド自由国」が成立する。
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