IRAの真の姿とは 悲劇の島アイルランド その5
Japan In-depth / 2019年7月5日 18時0分
アイルランド人の自治拡大と言うことは、最終的には一人一票の選挙を通じた議会政治がこの島に持ち込まれるということであり、そうなれば人口においては少数派である自分たちの既得権はまったく保証されなくなるーーこのように考えたプロテスタント系住民の中から、カトリックへの「無分別な権利拡大」には、たとえ武力に訴えてでも反対する、という過激思想が誕生し、やがて「アルスター義勇軍(アルスター・ボランティア・フォース。以下、略称UVF)」が旗揚げされる。
▲写真 「アルスター義勇軍」 出典:Imperial War Museums
このUVFが、カトリックの独立運動家にテロを加えるなどしたことから、対抗上、カトリック系住民も武装組織を持つこととなった。こうして結成されたのが「アイルランド義勇軍」である。
日本では、英国の支配に抵抗したカトリック系住民の中から、過激派がIRAを名乗ってテロに走ったのだろう、と考えている人が多いようであるが、事実はやや異なる。プロテスタント系住民の方が、先に武器を取り、UVFを組織したのだ。
いずれにせよ、アイルランド義勇軍は1916年、ダブリンにおいて武装蜂起する(世に言うイースター蜂起)が、一般市民の支持を集めることができず、わずか6日間で英軍により鎮圧されてしまった。しかし、義勇軍の指導者たちが、軍法会議で即時銃殺という刑に処せられたことから、急に市民の間で同情的な声が高まったのである。
この流れに乗って、もともと蜂起には消極的であった穏健派が勢力を伸ばし、前回触れたように政治部門がシン・フェイン党、そして軍事部門がIRAを名乗ることとなった。
つまり当初は穏健派と目されていたのだが、やがてIRAの内部では、
「デモや大衆運動だけでは埒が明かない。イースター蜂起において、多数の一般市民を巻き添えにしたことは反省すべきだが、武装闘争そのものまで否定すべきではない」と主張する者が増え始め、IRA暫定派を名乗って、組織内の多数を占めるまでになった。前述のように、アイルランド独立運動の歴史の中では、いくつもの組織がIRAを名乗って活動したが、1970年代以降、激しい反英テロ活動の代名詞となったのはこの組織で、以降、単にIRAと呼ぶ場合は、暫定派を指すのが通例となった。
実際に彼らのテロ活動はすさまじく、1979年には王族(ジョージ6世の従弟で、最後のインド総督であったマウントバッテン伯爵)を、ヨットに仕掛けた爆弾で暗殺し、1984年には、保守党大会が開かれていたリゾート地ブライトンのホテルを爆破した。この時は、当時のサッチャー首相は九死に一生を得たものの、議員や党職員など5人が死亡、30人以上が負傷している。
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